私利私欲を捨て、日本の近代化のために尽くした「大久保利通」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1830年~1878年
●死因:暗殺(享年49歳)
●別名:利済(諱(いみな))、一蔵(通称)
大久保利通は文政3年(1830年)、藩の記録所書役助に就く父・大久保次右衛門の子として薩摩藩の下鍛冶町に生を受けました。

しかし嘉永2年(1851年) 、次右衛門はお由良騒動に関与して鬼界が島に流され、さらには利通も免職され、以後大久保家の生活は貧窮苛烈を極めました。

嘉永4年(1851年)、幕府の介入により、島津斉彬が薩摩藩28代藩主となったため、利通も復職出来ましたが、その斉彬も在位7年で急死し、島津久光と保守派が再び実権を握ることになると、これに対抗するため急進派の若者たちと共に精中組という徒党を組みました。

一方で利通は権力機構を利用することを目論み、久光の遊び相手である吉祥院より囲碁を習い、吉祥院を通じて献策を行うことにより、久光にに精中組を認めさせることに成功し、尊攘派のリーダー、さらには久光の片腕として手腕を振るうことになりました。

文久2年(1862年)の寺田屋事件において殺されたり処刑されたものの大部分が精中組で、その時利通はすでに強い発言力を有していたが、現実を見据えてこらえました。

また第二次長州征伐の際、幕府老中・板倉勝静は薩摩を幕名により説得して自軍に引き込み劣勢を挽回しようとしたが、大義名分がないという理由からそれを拒み、さらに慶応3年(1867年)の王政復古のクーデターでは、公家の岩倉具視と共に筋書きを描きました。

その後、明治になると利通は文官として遷都、版籍奉還、廃藩置県などの重要案件を手掛け、やがて内務卿として全権を掌握するにいたります。

西郷隆盛などは、「家を築造したり、ぶち壊したりするのは自分の方が上だが、内部整備に関しては大久保の方がはるかに上で、自分は厠の隅を修理するにも足りない」といっています。

明治10年(1877年)の西南戦争では、無二の親友である隆盛を敵に回すことになり、隆盛は薩摩の城山において切腹することになったが、利通は鋼の意思で日本の近代化のためにかじ取りを行いました。

そして明治11年(1878年)5月14日、赤坂に出かけた利通は、赤坂見附から清水谷に至る道の途中に潜んでいた石川県士族の島田一郎、長連豪ら暗殺者達に襲撃され、49年の生涯を閉じましたが、その際利通は朋友・隆盛の手紙を持っていたといわれています。

利通は政府高官にあり、多くの政治家は実業界と癒着して巨利を手にしていたため、巷では彼がどれほど莫大な財を蓄えているかが話題になりました。

しかし親族が利通の遺産を調べてみると、現金140円(約500万円)しかなく、それどころか、家も土地も抵当に入り、逆に借金が8000円(約2億5000万円)という意外な結果でした。

というのも、新国家の建設のため政府は次々と事業を進めたものの財源が足りず、利通は個人的に借金をし、それを政府につぎ込んでいました。

裏工作を得意としていた利通でしたが、実際は清廉潔白な国士でした。

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