やさしい教育者と過激な実践者の二面性を持った「吉田松陰」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1830年~1859年
●死因:斬首(享年30歳)
●別名:寅次郎(通称)、矩方(諱(いみな))、松野仙三郎(変名)

天保元年(1830年)、26石取りの下級藩士・杉百合之助常道の次男として生まれた吉田松陰は、幼いころに叔父・吉田賢良の養子になりました。

吉田家は杉家の宗家であり、大番組57石の上士として山鹿流軍学の師範を務める家で、松陰が5歳のときに養父は早世しましたが、家学の絶えるのを惜しんだ藩はもう一人の叔父・玉木文之進を後見として松陰に家督を相続させました。

玉木は教育者として苛烈で、その厳しい英才教育を受けて育った松陰は、8歳で明倫館に入って教授見習いとなり、10歳で早くも講義を行いましたが、これはもちろん異例なことで、松陰は毛利敬親の前で「武教全書」という兵法書の一遍「戦法篇」を講じたといわれています。

嘉永元年(1848年)、松陰は18歳で兵学家として自立し、この年に藩政制度改革の建白書を提出、また嘉永2年(1849年)3月に藩庁から異族防御に関する意見を求められて「根本的な兵理は古今東西変わりないので、西洋兵学も取り入れるべきである」と語り、同年7月には御手当御内用掛に就任しています。

嘉永3年(1850年)には遊学に出て兵学のほか朱子学、陽明学、国学と多彩な学問に触れ、また詩人・森田節斎から暗誦を学び、佐久間象山からは西洋兵学も学んでいます。

嘉永4年(1851年)12月、東北への遊学を願い出て許可を得た松陰でしたが、通行手形が下りるのに時間がかかり、藩外の友人たちと約束した日限に間に合わなくなるという理由から出発し、脱藩の罪に問われています。

ただ松陰の才を惜しんだ藩より、実父・百合之助の「育(はぐくみ)」【公的な居候という意味で、武士としての身分保障】とされたものの、安政5年(1854年)3月に従者・金子重之輔とともにペリー艦隊への密航を企てたが失敗し、萩に送還のうえ野山獄に収監されています。

やがて出獄を許され、蟄居の身となった松陰は、玉木が主宰していた松下村塾を継ぎましたが、その3年間で武士を中心に約70人の塾生が学んでいます。

松陰は子供相手でも「あなた」と敬語を使い、入門希望者には「自分は人の師となり得ない人間であるが、兄弟のようにともに学ぼう。それでも良いなら来ても良い。」と答えていた松陰に対して、塾生からは「話は流暢ではなかったが、講義は巧みで説得力があった」という述懐が残っています。

穏やかに教鞭をとっていたように見えた松陰ですが、その言動はときに過激で、門下生を使って攘夷活動も多く行い、これが幕府に探知された結果、極刑に処されることになりました。

安政6年(1859年)5月、幕命によって江戸に送られた松陰は、その気になれば刑を逃れることも出来ましたが、あえて革命の計画とその必要性を幕府に述べたうえ、10月27日安政の大獄の犠牲者となりました。

維新の殉教者ともいえる松陰の死によって門下生らが心に持っていた革命の導火線に火をつけ、それ以後、尊王攘夷運動は激しさを増していきました。

下級公家からのし上がり、王政復古を実現させた「岩倉具視」

●出身地:京(京都府)
●生没年:1825年~1883年
●死因:病死(享年59歳)
●別名:友山(変名)、対岳(号)

公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、幼いころから知恵に富んでいたこともあり、14歳のときに見込まれて岩倉家の養子になりました。

岩倉家は下級の公家であり、第6代の尚具が宝暦事件【宝暦8年(1758年)に学者の竹内式部が桃園天皇に尊王論を講義したことを知った京都所司代が、幕府との摩擦を恐れ関わった公家を処分した事件】に関わって処分されるなど尊王の風潮の強い家系で、これが具視の王政復古の思想に強い影響を与えたといわれています。

その具視ですが、前関白で、朝廷に隠然たる影響を持ち、徳川斉昭の親戚である鷹司政通の歌道の弟子になり、鷹司が具視と接するうちに非凡な才能に気付いて、安政元年(1854年)に明治天皇の侍従に推薦されました。

安政5年(1858年)、日米通商条約の勅許を求めてきた幕府に対して、天皇は反対するものの、朝廷の意見は統一されず、関白・九条尚忠が幕府に委任する案を出しましたが、幕府を苦々しく思っていた具視の働きによってこの案を撤回されたものの、ただ幕府は朝廷の意向を無視し、単独講和を結んでいます。

安政の大獄が起きると、具視は公武合体論を説き、朝廷要人に被害がおよぶのを防ぎましたが、これが和宮降嫁に繋がり、文久元年(1861年)2月に将軍・家茂と和宮の婚儀が成立しました。

文久2年(1862年)4月、島津久光が幕政改革を掲げて上洛すると、朝廷の勢力を確保するために薩摩のような雄藩と手を組むべきだと考える具視は、朝廷へのとりなしを引き受けました。

しかし、藩論を攘夷に統一した長州藩の毛利敬親が京都にやってきたことにより、京都は尊王攘夷を叫ぶ過激派に制圧され、朝廷も三条実美ら攘夷派公家が幅を利かすようになりました。

和宮降嫁で幕府と内通する姦物とみなされた具視は、文久2年(1862年)8月に出家し、隠遁生活に入り、暗殺におびえる日々を過ごすことになりました。

その後、8月18日に政変が起こって攘夷過激派が京都から追放され、やっと安心して暮らせるようになりましたが、世間的に幕府の内通者という印象が定着していたため、政治的に孤立したまま5年ほど過ごすことになりました。

その間、公武合体の王権拡大から幕府抜きの王政復古へ思想を変化させた具視は、孝明天皇の在位中は冷遇されていましたが、慶応2年(1866年)12月に孝明天皇が崩御すると、翌・慶応3年(1867年)正月、薩摩藩の工作もあって三条実美らと関係を修復し、佐幕派の中川宮らと対抗する王政復古の公家集団を結成しました。

慶応3年(1867年)10月、王政復古派の公家は薩長二藩に倒幕の密勅を与えたものの、幕府は事前にそれを察知し、大政奉還によって徳川家の存続を図りました。

具視はさらに対抗措置として、王政復古のクーデターを画策し、12月9日には天皇によって王政復古の大号令が発せられ、これによって徳川慶喜、中川宮らは実権を奪われてしまいました。

諸藩連合をまとめるには朝廷内部の者で必要だったこともあり、優れた政治力をもった具視は三条実美とともに新政権のトップとなりました。

その具視は、明治16年(1883年)7月20日、病気で他界し、その後に太政大臣の位を送られています。

江戸無血開城の大役を果たした、まっすくな誠心の「山岡鉄舟」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1836年~1888年
●死因:病死(享年53歳)
●別名:鉄太郎(通称)

山岡鉄舟は天保7年(1836年)6月10日、江戸の蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれ、9歳から久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を、また父が招いた井上清虎から北辰一刀流を学びました。

母方は剣豪・塚原卜伝の家系で、武術には生れつきの才能があった鉄舟は、安政2年(1855年)に講武所に入って、千葉周作に剣術、また山岡静山に忍心流槍術を学びましたが、静山が急死した後、静山の実弟・高橋泥舟らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となりました。

安政3年(1856年)には剣道の技量抜群によって、講武所の世話役となり、安政4年(1857年)には清河八郎ら15人と尊王攘夷を旗印とした「虎尾の会」を結成しています。

文久2年(1862年)、江戸幕府によって浪士組が結成されると、親友の中條金之助とともに取締役となり、文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するものの、清川八郎が反幕と攘夷の立場を鮮明にすると、鉄舟も疑われて、江戸に呼び戻され、その直後、外国使節の警護を拒否し、謹慎処分を受けています。

この頃、中西派一刀流・浅利又七郎と試合をするが、勝てず弟子入りし、この頃から剣への求道が一段と厳しくなりました。

慶応4年(1868年)2月11日、江戸城重臣会議において謹慎の意を表した徳川慶喜は、勝海舟に全権を委ねて上野寛永寺に籠り謹慎しており、その状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送るために高橋泥舟を使者にしようとしたが、泥舟は慶喜警護から離れることができなかったため、高橋泥舟の推薦によって3月9日、鉄舟は勝と東征軍参謀である西郷隆盛の会談に先立って、官軍の駐留する駿府に向かいました。

この時、死罪にされるはずだった薩摩藩士・益満休之助とともに東海道を歩いていき、兵士に見つかると「幕臣・山岡が命により西郷参謀と面会するのだ。首を打ちたければ打て」と毅然として通り抜けたと言われています。

駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みましたが、その際に、西郷から以下の5つの条件を提示されました。
• 一、江戸城を明け渡す。
• 一、城中の兵を向島に移す。
• 一、兵器をすべて差し出す。
• 一、軍艦をすべて引き渡す。
• 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ鉄舟に対して、西郷はこれは朝命であると凄んだものの、逆に鉄舟は、もし島津侯が将軍・慶喜と同じ立場であったら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論しています。

その言葉を受けた西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るために死を覚悟して単身敵陣に乗り込んだうえ、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、さらにその主張をもっともだ、として将軍・慶喜の身の安全を保証しました。

西郷との会見で、江戸での全面戦争を回避し、江戸城無血開城の下地を作った鉄舟は維新後、徳川家に従って静岡に移り、静岡藩権大参事、明治5年(1872年)には特別の要請によってまだ幼い天皇の侍従になり、相撲で天皇を投げ飛ばすなど、厳しい教育を施したと言われています。

その後も剣と禅の奥義を追求し、鉄舟は無刀流を編み出しています。

幕府復権のため軍艦と共に北の大地へ向かった国際派幕臣「榎本武揚」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1836年~1908年
●死因:病死(享年73歳)
●別名:釜次郎(通称)

天保7年(1836年)8月25日、榎本武揚は伊能忠敬の内弟子として「大日本沿海興地図」の完成に携わった英才・榎本園兵衛武規の次男として江戸・下御徒町の通称「三味線堀の組長屋」に生まれました。

昌平坂学問所に入学した武揚は、新井白石の「読史余論」や「新嬰新設」を好んで読み、この頃に函館で共闘する大鳥圭介と知り合っています。

学問所卒業試験の結果がかんばしくなかったため、役職に就けなかった武揚は、学友の伊沢勤吾の父・伊沢美作守に頼み込み長崎伝習所に入所し、航海術や戦術、造船、語学、地理学、蒸気学、化学などを学び、筆頭教授のカッテンディケから、「品性卓越し、絶大な熱心さを持った計画性のある人物」と評されています。

幕府は、文久2年(1862年)にオランダへフリゲート蒸気軍艦1隻を発注し、同時に技術習得のための留学生を派遣しましたが、その中に江川太郎左衛門に学び、オランダ語も習得していた27歳の武揚も選ばれました。

その留学中に起こったデンマークの内戦を観戦し、戦争に加担したプロシアがデンマークの領土をもぎ取っていく様を見た武揚は、内戦を起こせばそれに干渉する他国に領土を奪われるということを目の当たりにし、これが後に勝海舟の唱えた内戦防止論に共鳴したことに繋がっていきました。

元治元年(1864年)10月20日、スクリュー式で三本マストに26門のクルップ砲が搭載され「開陽丸」と名付けられたその船を、訓練を終えた武揚らが大西洋を越えて慶応3年(1867年)3月26日に横浜へ回漕し、その即日に幕府海軍の期間となると同時に、武揚が船将と軍艦奉行を兼任することになりました。

その頃、日本ではすでに内戦が始まっていたおり、鳥羽伏見の戦いの後、武揚は幕府艦隊を率いて品川沖の制海権を確保し、江戸の無血開城を支援しました。

慶応4年(1868年)8月15日、榎本艦隊は田安亀之助を駿府に送り、徳川宗家の新体制下で存続が約束されたが、新政府から艦隊の引き渡しを受けたため、それを拒んで慶応4年(1868年)8月19日品川を脱出し、「旧幕臣のための蝦夷地開拓及び再三要請のあった奥羽列藩同盟への支援」を目的として北へ向かいました。

明治元年(1868年)10月20日、混乱を避けるため、諸外国の領事館のある函館を避けて鷹の木村の浜へやって来た武揚は、11月8日開陽丸上で英仏の領事と会見して覚書を交わし、12月7日に独立宣言を発しました。

しかし、12月28日に岩倉具視がパークスを動かして欧米列強の局外中立を撤回させて起こった函館戦争は、明治2年3月から5月にかけてピークを迎えましたが、武揚が降伏勧告を受け入れて5月18日に拠点であった五稜郭が新政府軍に明け渡されました。

武揚は明治2年(1869年)6月30日に投獄されましたが、明治5年(1872年)1月6日に共和国首脳の特赦が発表され、武揚は3月6日まで兄・武与宅にて謹慎を命ぜられました。

その後謹慎が明けた武揚は、早々に開拓使四等官に命ぜられ、明治7年には樺太問題を解決すべく海軍中将に昇進し、また駐露全権公使に着任しています。

さらに明治12年(1879年)、武揚は以降政府内で高官を務めて職務を確実にこなし、明治41年(1908年)10月26日に病死した際には多くの人々が詰めかけました。

幕府のために士道をつらぬいた新撰組の鬼の副長「土方歳三」

●出身地:武蔵国多摩郡(東京都)
●生没年:1835年~1869年
●死因:戦死(享年35歳)
●別名:義豊(諱(いみな))、内藤隼人(変名)

天保6年(1835年)、多摩石田村の裕福な農家に生まれた土方歳三でしたが、父とは生まれる前に死別しており、兄夫婦に養われました。

若き日の土方は、散薬の行商をしながら武州内の道場を渡り歩き、そんな中で天然理心流道場に出入りするようになり、以後の人生をともにする近藤勇と知り合いました。

よく知られていることですが、土方はまるで俳優のように容姿端麗で、身長は5尺5寸ほどあり、また若いころから大変な女好きともいわれており、丁稚の身で女中と恋仲になった土方は、奉公先の佐藤家に迷惑をかけたという話が残っています。

その後、浪士組に参加したが当初はさほど目立たなかった土方でしたが、芹沢一派を粛清して副長に就いた後は、隊内で権力を一手に掌握し、組織作りに励んで、新撰組の隊規「局中法度」という、破るとただちに切腹を言い渡される非常に厳しい掟の発布にも一枚噛んでいると思われます。

また、新撰組には戦闘時、一番に敵中に切り込むものが決められており、これは「死番」と呼ばれる交代制の役目で、戦死する可能性がとても高く危険なものでしたが、こういった戦術を考案したのも土方でないかといわれています。

元治元年(1864年)6月5日早朝、古高俊太郎が捕縛され、厳しい拷問の末、京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致するという尊攘派の恐ろしい計画を掴んだ新撰組は、ただちに行動を開始し、これによって池田屋の惨劇が引き起こされ、宮部鼎蔵や吉田稔麿などの人材が一夜で失われたため維新が大幅に遅れたと考えられています。

池田屋の変以降、新撰組は隊士を大幅に増やし、最盛期を迎えましたが、この時期には粛清も数多く行われましたが、この粛清は新撰組を存続させるうえで必要不可欠な措置でした。

薩長連合の成立以後、幕府側は窮地に立たされ、その配下にある新撰組も例外ではなく、鳥羽伏見の戦いの後、新撰組は組織を立て直せないまま江戸へ落ち延びました。

生き残りは雑兵を加えて甲陽鎮舞台に改変されましたが、戦況は悪化の一途をたどり、部隊は流山に移陣するも降伏し、その際に近藤は土方らを逃すために会えて投降、これが幼少時以来の親友との永遠の別れとなり、さらには結成以来の戦友・永倉新八らとも決別しました。

土方はその後も、会津・白河・仙台と転戦し、その間ともに戦ってきた新撰組古参メンバーは次々と戦死・投降していくものの、その屍を乗り越えて、土方は北へ北へと進んでいきました。

仙台で合流した榎本武揚軍に参加し、蝦夷に渡った土方は、ここで蝦夷共和国陸軍奉行並に命じられ、函館五稜郭に立て籠もった土方は小姓の市村鉄之助に自身の写真や手紙、長らく愛用してきた銘刀・和泉守兼定を託して、出陣していきました。

その土方の最後については場所も状況も諸説ありますが、はっきりしているのは明治2年(1869年)5月11日に銃撃を受けて死んだことだけです。

尚、榎本武揚以下蝦夷共和国首脳陣はその後降伏し、明治政府の寛大な処置で多くが生き延びていますが、死への旅の途中で次々と仲間を失った土方にとっては生き続けることは耐え難い屈辱だったと思えわれます。

日本のために、自らで幕府の最後をみとった「勝海舟」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1823年~1899年
●死因:病死(享年77歳)
●別名:麟太郎(幼名)、義邦・安芳(諱(いみな))

旗本・勝小吉の子供として、江戸の本所に生まれた勝海舟は、剣豪として名高い従兄弟の男谷精一郎(信友)から剣術を習い、後には男谷の一番弟子となった島田虎之助を剣の師匠としました。

海舟は、伊東玄朴とも親交があった師匠の島田虎之助から西洋式兵術の習得を勧められため、蘭学の大家として知られていた箕作阮甫に入門を求めたが断られ、阮甫の門下生の永井青涯の弟子となり、蘭学を学びました。

そして嘉永3年(1850年)、江戸・赤坂に蘭学塾を開きましたが、その傍らで諸藩の求めに応じて大砲の製造も試み、その関係で砲術を教えていた佐久間象山の元で学ぶことになりました。

嘉永6年(1853年)、ペリーが来航すると老中・阿部正弘が広く意見を求めたため、海舟はこれに応じて海軍創設及びその資金作りのために交易を行って人材を育成すべきだ、という内容の意見書を提出しました。

この海舟の意見書に目を付けたのが、後に生涯の友となる開国は幕臣・大久保忠寛(一翁)で、大久保とその同僚の岩瀬忠震の引き立てにより、海舟は政治の表舞台に上っていきました。

安政2年(1855年)、海舟はオランダ人から航海技術を伝習するための長崎海軍伝習所に参加し、さらに安政6年(1859年)正月には江戸にもどって講武所内に新しく創設された軍監教授所の教授方頭取となりました。

安政7年(1860年)、幕府は日米通商条約批准のために使節をアメリカへ派遣することになり、これに海舟が艦長として咸臨丸が同行することになり、無事にアメリカへ到着し、その際に西洋社会を自分の肌で体験することによって開国思想を深めていきました。

しかし帰国した直後は、幕府内で活躍する機会が与えられなかった勝は講武所で砲術を教えながら機を待っていましたが、文久2年(1862年)海舟は政治の中枢に再浮上し、軍艦奉行並みに抜擢されましたが、この年に坂本龍馬が海舟宅を訪ね、その見識と人物に惚れこんで、門人となっています。

翌年、海舟は尊王攘夷の嵐が吹く関西で活動し、3月に神戸海軍操練所を建設しましたが、元治元年(1864年)長州が起こした禁門の変に神戸海軍操練所に所属する人間が参加したことで、軍艦奉行を罷免され、慶応元年(1865年)には神戸海軍操練所は閉鎖されてしまいました。

海舟は門人の龍馬を西郷隆盛に預け、江戸で閑居していましたが、徳川慶喜から第二次長州征伐の停戦交渉役に起用され、無事に休戦を実現させましたが、慶喜の態度に失望し、江戸へ帰りました。

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は江戸に逃げ戻り、徹底抗戦を唱えていた小栗忠順を罷免し、海舟を陸軍総裁に任命されました。

同年2月15日、有栖川宮を大総督として東征軍が京都を発ち、江戸へ迫りましたが、海舟は東征軍参謀の西郷へ使者の山岡鉄舟を送る一方、英国大使館のアーネストサトウを通じて西郷に圧力をかけることにより、江戸城への攻撃を中止させました。

江戸城の無血開城を成功させ、自らの手で幕府を終わらせた勝でしたが、維新後は明治5年(1872年)から新政府に参加し、旧幕府勢力の人材を政府に呼び入れるなど、徳川家と幕臣のために尽くしました。

また海舟は海軍卿などの職に就き海軍の発展に尽くし、さらに西南戦争によって逆賊となった西郷の名誉回復にも務めました。

そして晩年は著述に専念しつつ、その死の直前まで、歪んだ方向に進みつつある新政府を批判し続けました。

幕府の立て直しに剛腕をふるったリアリスト「井伊直弼」

●出身地:近江国彦根藩(滋賀県)
●生没年:1815年~1860年
●死因:暗殺(享年46歳)
●別名:鉄三郎(通称)

有力な譜代大名として徳川政権の一翼を担っていた名門井伊家11代藩主・井伊直中の14男として彦根城中で生まれた直弼は、隠居した父の寵愛を一身に受けて成長しました。

彦根藩では本来、世子以外の子供は養子に出されるのが普通でしたが、直弼は養子となる機会に恵まれず、父が亡くなった後は城下の屋敷に移って、自身の屋敷を「埋木舎(うもれきのや)」と名づけて、屋敷に埋もれたまま一生過ごすつもりでした。

そしてひたすら居合術、禅、茶道に励み、それぞれ奥義を極めるまでになる一方で学問、特に国学を、後に腹心の部下となる長野主膳から熱心に学びました。

そんな直弼に転機が訪れたのは弘化3年(1846年)、藩主の後継者・直元が急死し、元藩主の直亮が高齢、また他の兄弟たちは養子に出ていたこともあり、唯一彦根に残って直弼が32歳で家督を継ぐため、直亮の養子になりました。

江戸城に出仕し有力大名が集まる溜間詰(たまりまづめ)に勤務するようになった後の嘉永3年(1850年)、直亮が病死し、彦根藩主となった直弼は、譜代大名から成る派閥内で中心人物になりつつありました。

嘉永6年(1853年)、浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、日本が混乱する中、老中の阿部正弘は大名や幕臣まで広く意見を集め、そのほとんどが鎖国の堅持と攘夷論でしたが、直弼は積極的に開国論を唱えました。

将軍・家慶が亡くなり、家定が将軍となったものの、家定には心身に障害があったため、将軍継嗣の問題が起こり、松平春嶽や島津斉彬ら雄藩大名の「一橋派」は一橋家を継いだ慶喜を推し、直弼ら譜代大名の「南紀派」は家定の従兄弟である紀州藩・慶福を推すことによって両派は激しく対立しました。

安政5年(1858年)4月、南紀派の綿密な工作により大老に就任した直弼は、勅命に背いて日米通商条約に調印し、さらに幕閣を刷新・徳川斉昭ら一橋派を処分したうえ、7月6日に将軍・家定が病死すると、慶福を14代将軍に就けました。

これら一連の出来事を知って激怒した朝廷は、安政5年(1858年)8月、水戸藩に対して幕府の条約無断調印と徳川斉昭らの処分を咎める密勅を下しました。

幕府に了解を得ず、朝廷が諸藩に直接勅命を下すということは、幕府権力の否定であり、幕政のトップに立っていた直弼にとっては許せない事であったため、懐刀の長野主膳を使って、自身に反対する勢力の一斉弾圧いわゆる安政の大獄を開始しました。

安政の大獄では京都にいた志士だけでなく、公家や地方志士、幕臣など処分者は100名に上り、特に水戸藩に対しても厳しい罰が与えられ、前藩主・斉昭は長蟄居、藩主・慶篤は差控、家老ら藩士にも切腹や死罪、さらに水戸藩に下された密勅を幕府に返還しなければ藩を滅亡させるとまで迫りました。

勅諚の返還を巡って水戸藩はふたつに分かれ、返還を拒み水戸から脱出した過激派によって、安政7年(1860年)3月3日、直弼は江戸城桜田門の近くで襲撃され、46歳の生涯を終えています。

日本の危機に直面し対応に苦慮した若き老中「阿部正弘」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1819年~1857年
●死因:病死(享年39歳)
●別名:正一、剛蔵(通称)

福山藩主・阿部正精(まさきよ)の六男として生まれた阿部正弘は、兄の正寧が隠居した後、天保7年(1836年)に福山藩主となりました。

寺社奉行として名を馳せ、天保14年(1843年)には25歳の若さで幕府の老中に就任し、弘化元年(1844年)には海防掛、翌年には水野忠邦の後任として老中主席の地位を得ています。

正弘は、将軍に開国を進言した先代老中・水野忠邦と反目するなど、多くの論者たちと同様に当初は攘夷派だったといわれています。

嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が浦賀に来航すると、幕府の前例を破って諸大名や幕臣に広く意見を求め、翌年にはペリーと日米和親条約を結んで、日本の鎖国を解きました。

それは幕政に関わっている間に、岩瀬忠震や勝海舟などの有能な人材の発掘を行った正弘は、岩瀬の影響を受けて開国論と富国強兵論の支持に変わったからでした。

正弘は松平春嶽や島津斉彬、徳川斉昭ら有力大名と協力して政治を行いましたが、それは過去の幕府において譜代大名と旗本が政治を司どり、いくら有力でも外様大名が口をはさむことが出来なかったという前例を覆したものでした。

中でも正弘は、春嶽の仲介で出会った斉彬と親しく、崩壊の危機に瀕した幕府の屋台骨をさあ冴える補佐役として重く用いる一方、斉彬の薩摩藩主就任にも尽力しています。

その親しさは島津一門の篤姫(後の天璋院)を徳川家定に嫁がせたほどで、さらには尊王攘夷で知られる徳川斉昭を幕政に加えたことも異例のことで、このように水戸・薩摩などの雄藩を幕府の号令のもとに連合し、「挙国一致体制」で諸外国に対抗しようとしていました。

また講武所や洋学所、長崎海軍伝習所の設置なども正弘の功績で、こういった先進的な学問所から、勝海舟など維新に関わる人材が出てきたことを考えれば、正弘が維新に以下に影響を与えたかが理解できます。

そのように、あまりに革新的すぎる正弘の政策は、井伊直弼など譜代大名たちの激しい反発を招き、追いつめられた正弘は、老中主席の地位を溜間詰(たまりまづめ)大名のひとりである堀田正睦に譲ることになりました。

以後、正弘は内政に専念し、幕政全般の改革を狙ったが、安政4年(1857年)6月、志半ばで病死しています。

正弘こそ、幕末動乱期におけるすべての種をまいた男ということが出来、もっと長生きをしていれば、幕末の状況も変わったかもしれないと惜しまれています。

そんな正弘ですが、人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かったため、ある人がそれを不審に思って尋ねてみました。

すると正弘は「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と、笑いながら答えたという逸話も残されています。

動乱の時代に苦渋の決断を迫られた最後の将軍「徳川慶喜」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1837年~1913年
●死因:病死(享年77歳)
●別名:七郎麿(通称)、興山(号)

天保8年(1837年)、水戸藩・徳川斉昭の七男として江戸の水戸藩邸で生まれた徳川慶喜は、もともと江戸で育てられるはずでしたが、斉昭の方針で水戸にて育てられました。

藩校・弘道館で会沢正志斎から儒学を学び、英明な子という評判を得ていた慶喜は、将軍・家慶から命じられたこともあり、弘化4年(1847年)、11歳で徳川御三卿家の一橋家を継ぐことになりました。

嘉永6年(1853年)、将軍・家慶が死亡し、家定が13代将軍になったころ、国内はペリー艦隊の来航で混乱し、様々な問題が発生したこともあって、幕府は優れた指導者として慶喜に白羽の矢を立てました。

慶喜を推したのは越前藩主・松平春嶽や徳川斉昭、島津斉彬などの有力大名で、彼らは「一橋派」と呼ばれましたが、これに対し井伊直弼を中心とした譜代大名などは血統の面から家定の従兄弟にあたる紀州の慶福を推薦し、彼らは「南紀派」と呼ばれました。

一橋派と南紀派は政争を繰り返しましたが、井伊直弼が大老に就任して事態が一変し、井伊による安政の大獄によって、安政6年(1859年)8月、慶喜にも蟄居謹慎が命じられました。

万延元年(1860年)、斉昭が死に、慶福が14代将軍になった後、謹慎を解かれた慶喜は、将軍後見職に、そして松平春嶽が政治総裁にそれぞれ任命され、幕政に加わることになりました。

朝廷でも公武合体派が後退し、尊王攘夷の過激派が実権を握るようになったことを憂慮した慶喜は、京都に入り将軍の権力を取り戻すべく働きかけましたが失敗しています。

しかし、8月18日の政変で情勢はまたも急変し、京都には朝廷と幕府、それに雄藩共同による公武合体政権が誕生、参与という名目で幕府と雄藩が同等の地位で政治に参加する参与会議と呼ばれる政治形態が出来上がりましたが、実は佐幕派だった慶喜がこれを自ら破壊したことによって、薩摩藩は長州藩と手を組んで倒幕に乗り出すことになりました。

元治元年(1864年)、参与及び将軍後見職を辞した慶喜は禁裏守衛総督に任ぜられ、禁門の変では動揺する公家たちを叱咤激励し、薩摩や会津の京都守備兵を指揮し、勝利しています。

高杉晋作のクーデターにより、長州藩の藩論が幕府との対決に転じたため、慶応元年(1865年)5月、第二次長州征伐をすべく、将軍・家茂が大坂城に入りましたが、最新武器で武装した長州諸隊に敗北、そして戦争の最中の7月10日、家茂が大坂城内で死去したため、幕府は軍を引きました。

幕府内で将軍になれる人物は慶喜をおいて他にいないこともあり、慶応2年(1866年)12月、慶喜は30歳で15代将軍になっています。

仏公使のロッシュの援助を受けて、フランス流幕政改革を試みましたが、慶喜への風当たりはますます厳しくなり、慶応3年(1867年)10月、薩長両藩による倒幕の密勅が出されることを察知した慶喜は山内容堂の勧めもあり、政権を朝廷へ帰す「大政奉還」に踏み切りました。

その後の12月9日の王政復古のクーデターにより、大阪へ退去させられた慶喜は鳥羽伏見の戦いにも敗れ、江戸に逃げ帰って上野の大慈院で謹慎し、恭順の意を示しました。

戊辰戦争が終わると、謹慎も解かれ、その後は写真撮影などの趣味にのめり込んだ慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に77歳で生涯を終えています。

坂本龍馬との会談で目覚め、大政奉還の実現に尽力した「後藤象二郎」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1834年~1885年
●死因:病死(享年50歳)
●別名:敏(諱(いみな))

天保9年(1838年)、土佐藩の上士・後藤正晴の長男として校地城下に生まれた後藤象二郎は、11歳にして父と失うが、姉婿の吉田東洋の薫陶を受けて育ち、長じて東洋の私塾で学ぶ一方、柳川藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学びました。

後に藩政に復帰した東洋の推挙によって、幡多郡奉行、近習目付、普請奉行などに取り立てられましたが、文久2年(1862年)、武市半平太らの土佐勤王党によって東洋が暗殺され、藩政が一新され、そのあおりで役目を致仕しました。

その後、江戸に出て航海術や蘭学、英学などを学んだ象二郎は、翌年前藩主・山内容堂による改革で再び表舞台に上がり、義兄である東洋の後を継いで、藩政を預かる身になりました。

象二郎は勤王党弾圧の後、新政策の一環としては藩営事業を統括し、近代産業の研究を行う機関である開成館を設立して運営を行い、また貿易機関として長崎に土佐商会を設置しています。

藩外の情勢を見るうちに、土佐藩を雄藩として確立させる構想を模索し始めた象二郎は、その手始めとして長崎で亀山社中を主宰する坂本龍馬と会見を持ちました。

現実的かつ柔軟性に富んだ龍馬の意見によって開眼した象二郎は、何度となく龍馬と会談し、龍馬に土佐への帰参を望んだが断られたため、藩の支援組織的な位置づけで海援隊と陸援隊を設立し、龍馬と中岡慎太郎にそれぞれを任せることにし、主従関係ではなくお互いに協力し合う盟約を結びました。

そんな象二郎の土佐藩における功績としてよく知られているのは船中八策の一件ですが、これはもともと龍馬が象二郎に授けた策でしたが、象二郎はいらぬ波風を立てないよう、あえて自分の策として容堂に提出しました。

慶応3年(1867年)、船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対して大政奉還を提議し、さらに土佐藩の在京幹部・寺村道成や真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し、薩土盟約を締結しています。

しかし、イカルス号事件の処理のため土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなどのため時間を消耗し、倒幕路線を突き進む薩摩との思惑のずれによって盟約は解消されてしまいました。

薩摩との提携が解消された後も、象二郎は大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出し、翌10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還が行われました。

新政府が設立されると同時に象二郎は参与となり、それ以後、工部大輔、参議などを歴任しましたが、西郷の征韓論に同調し、政争に敗れて辞職しています。

野に下った後は、板垣退助らとともに愛国党を組織し、民撰議院設立建白書を提出するなどの活動を行い、その後は自由民権運動に加わって、板垣の自由党の幹部になるが、黒田内閣時には逓信大臣、第二次伊藤内閣では農商務大臣を務めました。

土佐藩を薩長閥に次ぐ実力を保つ基盤を築き、明治まで生き抜いた象二郎は、明治30年(1897年)、59歳の生涯を閉じています。