動乱の時代に苦渋の決断を迫られた最後の将軍「徳川慶喜」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1837年~1913年
●死因:病死(享年77歳)
●別名:七郎麿(通称)、興山(号)

天保8年(1837年)、水戸藩・徳川斉昭の七男として江戸の水戸藩邸で生まれた徳川慶喜は、もともと江戸で育てられるはずでしたが、斉昭の方針で水戸にて育てられました。

藩校・弘道館で会沢正志斎から儒学を学び、英明な子という評判を得ていた慶喜は、将軍・家慶から命じられたこともあり、弘化4年(1847年)、11歳で徳川御三卿家の一橋家を継ぐことになりました。

嘉永6年(1853年)、将軍・家慶が死亡し、家定が13代将軍になったころ、国内はペリー艦隊の来航で混乱し、様々な問題が発生したこともあって、幕府は優れた指導者として慶喜に白羽の矢を立てました。

慶喜を推したのは越前藩主・松平春嶽や徳川斉昭、島津斉彬などの有力大名で、彼らは「一橋派」と呼ばれましたが、これに対し井伊直弼を中心とした譜代大名などは血統の面から家定の従兄弟にあたる紀州の慶福を推薦し、彼らは「南紀派」と呼ばれました。

一橋派と南紀派は政争を繰り返しましたが、井伊直弼が大老に就任して事態が一変し、井伊による安政の大獄によって、安政6年(1859年)8月、慶喜にも蟄居謹慎が命じられました。

万延元年(1860年)、斉昭が死に、慶福が14代将軍になった後、謹慎を解かれた慶喜は、将軍後見職に、そして松平春嶽が政治総裁にそれぞれ任命され、幕政に加わることになりました。

朝廷でも公武合体派が後退し、尊王攘夷の過激派が実権を握るようになったことを憂慮した慶喜は、京都に入り将軍の権力を取り戻すべく働きかけましたが失敗しています。

しかし、8月18日の政変で情勢はまたも急変し、京都には朝廷と幕府、それに雄藩共同による公武合体政権が誕生、参与という名目で幕府と雄藩が同等の地位で政治に参加する参与会議と呼ばれる政治形態が出来上がりましたが、実は佐幕派だった慶喜がこれを自ら破壊したことによって、薩摩藩は長州藩と手を組んで倒幕に乗り出すことになりました。

元治元年(1864年)、参与及び将軍後見職を辞した慶喜は禁裏守衛総督に任ぜられ、禁門の変では動揺する公家たちを叱咤激励し、薩摩や会津の京都守備兵を指揮し、勝利しています。

高杉晋作のクーデターにより、長州藩の藩論が幕府との対決に転じたため、慶応元年(1865年)5月、第二次長州征伐をすべく、将軍・家茂が大坂城に入りましたが、最新武器で武装した長州諸隊に敗北、そして戦争の最中の7月10日、家茂が大坂城内で死去したため、幕府は軍を引きました。

幕府内で将軍になれる人物は慶喜をおいて他にいないこともあり、慶応2年(1866年)12月、慶喜は30歳で15代将軍になっています。

仏公使のロッシュの援助を受けて、フランス流幕政改革を試みましたが、慶喜への風当たりはますます厳しくなり、慶応3年(1867年)10月、薩長両藩による倒幕の密勅が出されることを察知した慶喜は山内容堂の勧めもあり、政権を朝廷へ帰す「大政奉還」に踏み切りました。

その後の12月9日の王政復古のクーデターにより、大阪へ退去させられた慶喜は鳥羽伏見の戦いにも敗れ、江戸に逃げ帰って上野の大慈院で謹慎し、恭順の意を示しました。

戊辰戦争が終わると、謹慎も解かれ、その後は写真撮影などの趣味にのめり込んだ慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に77歳で生涯を終えています。