やさしい教育者と過激な実践者の二面性を持った「吉田松陰」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1830年~1859年
●死因:斬首(享年30歳)
●別名:寅次郎(通称)、矩方(諱(いみな))、松野仙三郎(変名)

天保元年(1830年)、26石取りの下級藩士・杉百合之助常道の次男として生まれた吉田松陰は、幼いころに叔父・吉田賢良の養子になりました。

吉田家は杉家の宗家であり、大番組57石の上士として山鹿流軍学の師範を務める家で、松陰が5歳のときに養父は早世しましたが、家学の絶えるのを惜しんだ藩はもう一人の叔父・玉木文之進を後見として松陰に家督を相続させました。

玉木は教育者として苛烈で、その厳しい英才教育を受けて育った松陰は、8歳で明倫館に入って教授見習いとなり、10歳で早くも講義を行いましたが、これはもちろん異例なことで、松陰は毛利敬親の前で「武教全書」という兵法書の一遍「戦法篇」を講じたといわれています。

嘉永元年(1848年)、松陰は18歳で兵学家として自立し、この年に藩政制度改革の建白書を提出、また嘉永2年(1849年)3月に藩庁から異族防御に関する意見を求められて「根本的な兵理は古今東西変わりないので、西洋兵学も取り入れるべきである」と語り、同年7月には御手当御内用掛に就任しています。

嘉永3年(1850年)には遊学に出て兵学のほか朱子学、陽明学、国学と多彩な学問に触れ、また詩人・森田節斎から暗誦を学び、佐久間象山からは西洋兵学も学んでいます。

嘉永4年(1851年)12月、東北への遊学を願い出て許可を得た松陰でしたが、通行手形が下りるのに時間がかかり、藩外の友人たちと約束した日限に間に合わなくなるという理由から出発し、脱藩の罪に問われています。

ただ松陰の才を惜しんだ藩より、実父・百合之助の「育(はぐくみ)」【公的な居候という意味で、武士としての身分保障】とされたものの、安政5年(1854年)3月に従者・金子重之輔とともにペリー艦隊への密航を企てたが失敗し、萩に送還のうえ野山獄に収監されています。

やがて出獄を許され、蟄居の身となった松陰は、玉木が主宰していた松下村塾を継ぎましたが、その3年間で武士を中心に約70人の塾生が学んでいます。

松陰は子供相手でも「あなた」と敬語を使い、入門希望者には「自分は人の師となり得ない人間であるが、兄弟のようにともに学ぼう。それでも良いなら来ても良い。」と答えていた松陰に対して、塾生からは「話は流暢ではなかったが、講義は巧みで説得力があった」という述懐が残っています。

穏やかに教鞭をとっていたように見えた松陰ですが、その言動はときに過激で、門下生を使って攘夷活動も多く行い、これが幕府に探知された結果、極刑に処されることになりました。

安政6年(1859年)5月、幕命によって江戸に送られた松陰は、その気になれば刑を逃れることも出来ましたが、あえて革命の計画とその必要性を幕府に述べたうえ、10月27日安政の大獄の犠牲者となりました。

維新の殉教者ともいえる松陰の死によって門下生らが心に持っていた革命の導火線に火をつけ、それ以後、尊王攘夷運動は激しさを増していきました。