幕府復権のため軍艦と共に北の大地へ向かった国際派幕臣「榎本武揚」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1836年~1908年
●死因:病死(享年73歳)
●別名:釜次郎(通称)

天保7年(1836年)8月25日、榎本武揚は伊能忠敬の内弟子として「大日本沿海興地図」の完成に携わった英才・榎本園兵衛武規の次男として江戸・下御徒町の通称「三味線堀の組長屋」に生まれました。

昌平坂学問所に入学した武揚は、新井白石の「読史余論」や「新嬰新設」を好んで読み、この頃に函館で共闘する大鳥圭介と知り合っています。

学問所卒業試験の結果がかんばしくなかったため、役職に就けなかった武揚は、学友の伊沢勤吾の父・伊沢美作守に頼み込み長崎伝習所に入所し、航海術や戦術、造船、語学、地理学、蒸気学、化学などを学び、筆頭教授のカッテンディケから、「品性卓越し、絶大な熱心さを持った計画性のある人物」と評されています。

幕府は、文久2年(1862年)にオランダへフリゲート蒸気軍艦1隻を発注し、同時に技術習得のための留学生を派遣しましたが、その中に江川太郎左衛門に学び、オランダ語も習得していた27歳の武揚も選ばれました。

その留学中に起こったデンマークの内戦を観戦し、戦争に加担したプロシアがデンマークの領土をもぎ取っていく様を見た武揚は、内戦を起こせばそれに干渉する他国に領土を奪われるということを目の当たりにし、これが後に勝海舟の唱えた内戦防止論に共鳴したことに繋がっていきました。

元治元年(1864年)10月20日、スクリュー式で三本マストに26門のクルップ砲が搭載され「開陽丸」と名付けられたその船を、訓練を終えた武揚らが大西洋を越えて慶応3年(1867年)3月26日に横浜へ回漕し、その即日に幕府海軍の期間となると同時に、武揚が船将と軍艦奉行を兼任することになりました。

その頃、日本ではすでに内戦が始まっていたおり、鳥羽伏見の戦いの後、武揚は幕府艦隊を率いて品川沖の制海権を確保し、江戸の無血開城を支援しました。

慶応4年(1868年)8月15日、榎本艦隊は田安亀之助を駿府に送り、徳川宗家の新体制下で存続が約束されたが、新政府から艦隊の引き渡しを受けたため、それを拒んで慶応4年(1868年)8月19日品川を脱出し、「旧幕臣のための蝦夷地開拓及び再三要請のあった奥羽列藩同盟への支援」を目的として北へ向かいました。

明治元年(1868年)10月20日、混乱を避けるため、諸外国の領事館のある函館を避けて鷹の木村の浜へやって来た武揚は、11月8日開陽丸上で英仏の領事と会見して覚書を交わし、12月7日に独立宣言を発しました。

しかし、12月28日に岩倉具視がパークスを動かして欧米列強の局外中立を撤回させて起こった函館戦争は、明治2年3月から5月にかけてピークを迎えましたが、武揚が降伏勧告を受け入れて5月18日に拠点であった五稜郭が新政府軍に明け渡されました。

武揚は明治2年(1869年)6月30日に投獄されましたが、明治5年(1872年)1月6日に共和国首脳の特赦が発表され、武揚は3月6日まで兄・武与宅にて謹慎を命ぜられました。

その後謹慎が明けた武揚は、早々に開拓使四等官に命ぜられ、明治7年には樺太問題を解決すべく海軍中将に昇進し、また駐露全権公使に着任しています。

さらに明治12年(1879年)、武揚は以降政府内で高官を務めて職務を確実にこなし、明治41年(1908年)10月26日に病死した際には多くの人々が詰めかけました。