下級公家からのし上がり、王政復古を実現させた「岩倉具視」

●出身地:京(京都府)
●生没年:1825年~1883年
●死因:病死(享年59歳)
●別名:友山(変名)、対岳(号)

公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、幼いころから知恵に富んでいたこともあり、14歳のときに見込まれて岩倉家の養子になりました。

岩倉家は下級の公家であり、第6代の尚具が宝暦事件【宝暦8年(1758年)に学者の竹内式部が桃園天皇に尊王論を講義したことを知った京都所司代が、幕府との摩擦を恐れ関わった公家を処分した事件】に関わって処分されるなど尊王の風潮の強い家系で、これが具視の王政復古の思想に強い影響を与えたといわれています。

その具視ですが、前関白で、朝廷に隠然たる影響を持ち、徳川斉昭の親戚である鷹司政通の歌道の弟子になり、鷹司が具視と接するうちに非凡な才能に気付いて、安政元年(1854年)に明治天皇の侍従に推薦されました。

安政5年(1858年)、日米通商条約の勅許を求めてきた幕府に対して、天皇は反対するものの、朝廷の意見は統一されず、関白・九条尚忠が幕府に委任する案を出しましたが、幕府を苦々しく思っていた具視の働きによってこの案を撤回されたものの、ただ幕府は朝廷の意向を無視し、単独講和を結んでいます。

安政の大獄が起きると、具視は公武合体論を説き、朝廷要人に被害がおよぶのを防ぎましたが、これが和宮降嫁に繋がり、文久元年(1861年)2月に将軍・家茂と和宮の婚儀が成立しました。

文久2年(1862年)4月、島津久光が幕政改革を掲げて上洛すると、朝廷の勢力を確保するために薩摩のような雄藩と手を組むべきだと考える具視は、朝廷へのとりなしを引き受けました。

しかし、藩論を攘夷に統一した長州藩の毛利敬親が京都にやってきたことにより、京都は尊王攘夷を叫ぶ過激派に制圧され、朝廷も三条実美ら攘夷派公家が幅を利かすようになりました。

和宮降嫁で幕府と内通する姦物とみなされた具視は、文久2年(1862年)8月に出家し、隠遁生活に入り、暗殺におびえる日々を過ごすことになりました。

その後、8月18日に政変が起こって攘夷過激派が京都から追放され、やっと安心して暮らせるようになりましたが、世間的に幕府の内通者という印象が定着していたため、政治的に孤立したまま5年ほど過ごすことになりました。

その間、公武合体の王権拡大から幕府抜きの王政復古へ思想を変化させた具視は、孝明天皇の在位中は冷遇されていましたが、慶応2年(1866年)12月に孝明天皇が崩御すると、翌・慶応3年(1867年)正月、薩摩藩の工作もあって三条実美らと関係を修復し、佐幕派の中川宮らと対抗する王政復古の公家集団を結成しました。

慶応3年(1867年)10月、王政復古派の公家は薩長二藩に倒幕の密勅を与えたものの、幕府は事前にそれを察知し、大政奉還によって徳川家の存続を図りました。

具視はさらに対抗措置として、王政復古のクーデターを画策し、12月9日には天皇によって王政復古の大号令が発せられ、これによって徳川慶喜、中川宮らは実権を奪われてしまいました。

諸藩連合をまとめるには朝廷内部の者で必要だったこともあり、優れた政治力をもった具視は三条実美とともに新政権のトップとなりました。

その具視は、明治16年(1883年)7月20日、病気で他界し、その後に太政大臣の位を送られています。