坂本龍馬との会談で目覚め、大政奉還の実現に尽力した「後藤象二郎」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1834年~1885年
●死因:病死(享年50歳)
●別名:敏(諱(いみな))

天保9年(1838年)、土佐藩の上士・後藤正晴の長男として校地城下に生まれた後藤象二郎は、11歳にして父と失うが、姉婿の吉田東洋の薫陶を受けて育ち、長じて東洋の私塾で学ぶ一方、柳川藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学びました。

後に藩政に復帰した東洋の推挙によって、幡多郡奉行、近習目付、普請奉行などに取り立てられましたが、文久2年(1862年)、武市半平太らの土佐勤王党によって東洋が暗殺され、藩政が一新され、そのあおりで役目を致仕しました。

その後、江戸に出て航海術や蘭学、英学などを学んだ象二郎は、翌年前藩主・山内容堂による改革で再び表舞台に上がり、義兄である東洋の後を継いで、藩政を預かる身になりました。

象二郎は勤王党弾圧の後、新政策の一環としては藩営事業を統括し、近代産業の研究を行う機関である開成館を設立して運営を行い、また貿易機関として長崎に土佐商会を設置しています。

藩外の情勢を見るうちに、土佐藩を雄藩として確立させる構想を模索し始めた象二郎は、その手始めとして長崎で亀山社中を主宰する坂本龍馬と会見を持ちました。

現実的かつ柔軟性に富んだ龍馬の意見によって開眼した象二郎は、何度となく龍馬と会談し、龍馬に土佐への帰参を望んだが断られたため、藩の支援組織的な位置づけで海援隊と陸援隊を設立し、龍馬と中岡慎太郎にそれぞれを任せることにし、主従関係ではなくお互いに協力し合う盟約を結びました。

そんな象二郎の土佐藩における功績としてよく知られているのは船中八策の一件ですが、これはもともと龍馬が象二郎に授けた策でしたが、象二郎はいらぬ波風を立てないよう、あえて自分の策として容堂に提出しました。

慶応3年(1867年)、船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対して大政奉還を提議し、さらに土佐藩の在京幹部・寺村道成や真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し、薩土盟約を締結しています。

しかし、イカルス号事件の処理のため土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなどのため時間を消耗し、倒幕路線を突き進む薩摩との思惑のずれによって盟約は解消されてしまいました。

薩摩との提携が解消された後も、象二郎は大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出し、翌10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還が行われました。

新政府が設立されると同時に象二郎は参与となり、それ以後、工部大輔、参議などを歴任しましたが、西郷の征韓論に同調し、政争に敗れて辞職しています。

野に下った後は、板垣退助らとともに愛国党を組織し、民撰議院設立建白書を提出するなどの活動を行い、その後は自由民権運動に加わって、板垣の自由党の幹部になるが、黒田内閣時には逓信大臣、第二次伊藤内閣では農商務大臣を務めました。

土佐藩を薩長閥に次ぐ実力を保つ基盤を築き、明治まで生き抜いた象二郎は、明治30年(1897年)、59歳の生涯を閉じています。