戦国時代を経て日本を統一した徳川家康

戦国時代を経て日本を統一した徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」に任命され、以後264年間続く長期政権「徳川幕府」を創設しました。

その政権は、現在の東京にあたる江戸に拠点を置いていたこともあって江戸幕府と呼ばれ、「江戸時代」の由来となりました。

さて、世間一般で「幕末」と呼ばれているのは、ひとことでいうと、この「江戸時代の末期」を指し、倒幕運動が起きたこの激動の時代は、第13代将軍・徳川家定から第15代将軍・慶喜の在任時にあたります。

幕府は、将軍を頂点として全国の大名を支配下に置いて、参勤交代や治水、土木工事を命じることで、財政負担を与え、武力反抗を封じる施策を取っていました。

そんな徳川幕府に仕える武士のうち、石高1万国以上のものは大名と呼ばれ、徳川家とのかかわりの深さから、親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)の三種に分けられました。

「幕藩体制(ばくはんたいせい)とは

幕府は大名に日本中の領地である「藩」を治めさせ、直轄地には大名の代わりに代官をおいており、このように中央政府である幕府と地方政府である大名の藩が一体となったこの体制を、「幕藩体制(ばくはんたいせい)」と呼ばれました。

要職は親藩・譜代で固められ、地方の外様大名は、政権の中枢から外されていたものの、藩は一つの独立国家として成長し、長州や薩摩などの有力な外様大名が幕末で躍進することになりました。

そんな江戸時代では、現代の会社員同様、武士は藩に属して棒給を受けていましたが、幕府の支配力が弱まり、価値観が多様化した幕末では藩や組織の束縛を受けず自由に活動し、志を遂げるために武士が藩を抜け出して浪人になる、いわゆる「脱藩」するものが増え始め、藩の側でも脱藩を黙認したり、許したりするケースが多くなってきました。

ただ古来より、脱藩は「主を見限る行為」という根強い価値観があったため、公に認められたわけではなく、場合によってはお尋ねものとなり、追手に捕らわれて死罪になることもありました。

さて、幕末ではペリーの来航が大きな事件の一つですが、黒船が来航する前から、外国船がたびたび日本を訪れ、交易要求や略奪行為などで騒ぎを起こしていました。

鎖国状態にあった日本は中国やオランダ以外の海外との交流を制限している状態にあったため、日本の沿岸に接近する外国船に対しては、「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」により、見つけ次第に砲撃し、追い返していました。

しかし、アヘン戦争で清国がイギリスに惨敗すると、「薪水給与伶(しんすいきゅうよれい)」を出すなど、幕府も徐々に楽観視できなくなり、危機感も募らせていきました。

そうして、幕藩体制が揺らいでくると、幕府も反幕勢力も朝廷の権威を見直し、政治的に利用しようとし、必然的にその権威は復活したが、当時の朝廷には国政を行うだけの力はありませんでした。

そこで孝明天皇は幕府の政策の公武合体(こうぶがったい)を推進し、幕府との連携につとめましたが、結果的に幕府は倒れてしまい、王政復古(おうせいふっこ)の大号令を経て、明治天皇の代に、天皇政治の復活がなされました。