冷静な判断力を持って、度重なる長州藩の危機を救った「木戸孝允」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1833年~1877年
●死因:病死(享年45歳)
●別名:木戸孝允、松菊(号)

木戸孝允は天保4年(1833年)6月26日、萩城下にある呉服町に20石取りの藩医・和田昌景の子として生まれ、8歳で桂九郎兵衛の養子となって、桂家を相続し、しばらくは桂小五郎と名乗っていました。

藩校・明倫館に学んでいたものの、剣の腕も含めてぱっとしない凡庸な少年だったようだが、明倫館で吉田松陰の講義を受けた彼はその才能を大きく開花させました。

嘉永5年(1852年)11月、江戸に留学した孝允は間もなく塾頭となり、またその留学中に西洋兵学や砲術、造船、蘭学を学びましたがいずれも中途半端な修行で、時局や人物の才を見極める目を養ったことや、多数の公家や志士と知り合えたことが、この留学中に得た最大の収穫でした。

その後孝允は、25歳で藩の公職に就き、26歳で大検視・江戸番手に奉職し、30歳で祐筆に取り立てられています。

安政3年(1856年)、世間では違勅問題と将軍継嗣問題などにより時代は大きく揺れ始め、萩に幽閉されていた吉田松陰も過激な行動を取るようになってきた。

松陰が造った松下村塾で、孝允は兄貴分であったものの、江戸で諸々の情報を掴んでいた孝允は、現時点での尊攘活動は死を招くと理解していたため、松陰の行動に同調しませんでした。

文久2年(1862年)、長州の藩論は公武合体から尊王攘夷に転換したが、これは時代の流れに逆行した判断で、馬関を通る外国船に砲撃を続ける長州は、次第に世間から浮いていきました。

翌年、京都にて8月18日の政変が発生し、御所は薩摩と会津を中心とする諸藩によって封鎖され、長州は京都から追い落とされました。

しかし、この後も孝允は京都で活動を続け、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐と事件が続く中、尊攘派にとって最も危険な場所に潜伏し、追手が掛かると剣も取らずに姿を消すことから、人々に「逃げの小五郎」と呼ばれました。

尊攘派はやがては長州からも追われることになりましたが、高杉晋作が挙兵して俗論党を一掃し、元治2年(1865年)3月に革命政権が樹立され、孝允は政治担当者として呼び戻されました。

武力で政権を奪った諸隊の暴走を抑えた孝允は、武備恭順の指針のもとで、長州を幕府に対抗できる独立国家として完成させ、村田蔵六を総司令官兼士官学校教官に据えて、諸隊の再編成と将兵には西洋兵学の訓練を課しました。

慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬の協力で薩長同盟を締結させ、薩摩藩経由で新型銃を購入し、後の第二次長州征伐に勝利しました。

やがて明治元年(1868年)に孝允は総裁局顧問、明治2年(1869年)には参議に就任し、同年に藩主の毛利敬親を説いて版籍奉還を率先して断行させました。

明治4年(1871年)に岩倉使節団の一員としての渡欧の後は、欧米列強の国力の源泉を教育と市民意識の高さと受け止めて、その普及に尽力しています。

列強との対決という将来を見越した危機感の前では、明治6年(1873年)に西郷隆盛が提唱した征韓論など不急の事柄であったため、孝允は西郷を下野させ、後に征台論を唱えた大久保利通とも対立して辞職しました。

そして明治10年(1877年)、西南戦争の最中に孝允は45歳の生涯を終えました。