生まれながらの革命児で、倒幕の狼煙を挙げた「高杉晋作」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1839年~1867年
●死因:病死(享年29歳)
●別名:春風(諱(いみな))、谷潜蔵(変名)

高杉晋作は、天保10年(1839年)8月20日、萩の150石取り大組の家、高杉小忠太の長男として誕生しました。

高杉家は上士の家柄で、小忠太は藩政に携わり、晋作自身も22歳で藩の次代重役候補である小姓役に就任しています。

晋作は、14歳の頃から藩校の明倫館に通っていましたが、学問よりも剣術の方を好み、修練を積んで柳生新陰流免許皆伝の腕前になりました。

そんな晋作は安政4年(1857年)、学友の久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の門を叩くものの、家のものが松陰に学ぶのを快く思わなかったため、家人が寝静まってから松下村塾への3kmの道を通い、安政7年(1860年)1月23日には井上家の政子と結婚しました。

その後の文久元年(1861年)、晋作はすでに列藩によって反植民地化されている上海に2ヶ月滞在した際、西洋文明を導入しなければ、日本は世界から取り残されて滅んでしまうので、むやみに開国するのではなく、封建制度を廃して近代国家を作らなければと考えました。

そのため江戸にもどった晋作は尊攘思想を選び、資金と同志をかき集めて御盾組を結成して攘夷活動に乗り出しています。

文久3年(1863年)、長州は攘夷の口火を切って外国船を砲撃しましたが、猛反撃を食らい大敗を喫したため、藩主・毛利敬親は晋作に軍備の立て直しを命じました。

晋作は西洋軍制に習った軍隊で、かつ身分を問わず志を同じくする者を集めた軍隊「奇兵隊」を結成し、結成当初は暴力事件など問題を起こしたものの、対外的に危機に脅かされる長州藩内では、奇兵隊に続く各種の軍事組織が次々と結成されるなど、奇兵隊も公認されていきました。

元治元年(1864年)8月5日、先の砲撃を受けた英仏米蘭の4か国連合艦隊が馬関の前田砲台を攻撃し、長州は惨敗しましたが、奇兵隊の起こした問題の責任を取って謹慎していた晋作が呼び出され、長州は幕府の命令で攘夷を行ったので賠償は幕府がすべきだと説いて、この講和交渉を成功させました。

ただ、この頃から第一次長州征伐が本格化し始め、長州にも幕府恭順派・俗論党が台頭し、長州はその藩論を一変させたため、長州は一戦も交えることなく降伏し、晋作も九州へ逃亡しました。

しかし、12月なって再び故郷へ舞い戻った晋作は、たった80名の同志と討ち死に覚悟のクーデターを起こして奇跡的に成功を収めました。

その後の慶応元年(1865年)11月、再び倒幕色に染まった長州に対して、幕府は第二次長州征伐を決定したため、もはや決戦を避けられない長州は総勢4000の藩兵と諸隊を4か所の国境に配置し防戦しました。

その長州に対して幕府側の兵力は総勢15万と絶望的な戦いになるはずだったが、晋作による停泊中の幕府艦隊に対する奇襲をはじめ、新兵器の保有数や地理などの情報面での優位性などによって勝ちを治めました。

しかしながら慶応2年(1866年)10月20日、晋作は病で職を退き、療養生活に入りましたが、翌年4月14日の未明にその短い生涯を終えました。

中原邦平の伝記によると、晋作はいったん意識を取り戻して筆をとり、「おもしろき こともなき世をおもしろく」とまで書き、枕元にいた望東尼がこれに続け「すみなすものは 心なりけり」と書くと、「おもしろいのう」とほほ笑んで、息絶えたとなっています。