いち早く薩長同盟の実現に奔走した坂本龍馬の盟友「中岡慎太郎」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1838年~1867年
●死因:暗殺(享年30歳)
●別名:光次(通称)、道正(諱(いみな))、石川誠之助(変名)

土佐藩北川郷の大庄屋の家に生まれた中岡慎太郎は、7歳で隣村の島村岱作(たいさく)の私塾へ通い、14歳で岡本寧甫(ねいほ)や高松順蔵の塾、さらに15歳で間崎滄浪(そうろう)の門を叩くなど、当時から第一級の知識人だったと思われます。

また慎太郎は武にも長じ、18歳で武市半平太の道場に入門した彼は、居合術が得意だったといわれています。

病の父に代わって、20歳で庄屋見習いになった慎太郎は、文久元年(1861年)に旗揚げして間もない土佐勤王党に加盟し、志士としての活動を始めました。

文久3年(1863年)、京都の藩邸に着いた徒目付他藩応接密事用に任じられましたが、山内容堂が勤王派の暴走を恐れ、藩政改革に乗り出したことにより罷免されています。

さらに勤王党の大弾圧が行われたため、京都に残っていた慎太郎は三条実美ら勤王七卿を訪ねて長州を訪れ、その足で土佐藩に帰国したものの、藩内の状況に絶望した慎太郎は脱藩し、長州へ出奔しました。

長州入りした慎太郎は、高杉晋作ら長州藩重臣と会う一方、七卿を慕って長州に来ていた土方楠左衛門ら土佐浪士5人と語らい七卿の身辺警護をさせる一方、長州藩内に忠勇隊という浪士部隊を組織させています。

その後、慎太郎は再び京都に上り、諸藩や幕府の動向を探るほか、薩摩の西郷隆盛や長州の木戸孝允と会談するなど、京と大阪を中心に奔走しています。

この時期の慎太郎は、ほとんど長州藩士として活動しており、禁門の変で進退窮まった長州藩の復権に努め、また幕府寄りだった薩摩に対して互いに歩み寄るよう働きかける一方で、武力による倒幕論を説き、遊撃隊に参加して奮戦しています。

禁門の変で朝敵となった長州に対し、幕府軍の征伐が始まりましたが、慎太郎は池内蔵太らとともに長州藩内の軍備を助けて活動し、さらに薩摩の西郷に薩長連合の必要性を説くかたわらで土佐の板垣退助や福岡孝弟らとも密会し、説得にあたっています。

記録によると、慎太郎が坂本龍馬と初めて会ったのは、慶応元年(1865年)のことで、慎太郎は攘夷討幕論、龍馬は開国討幕論と思想は異なっていたものの、ともに広い視野と見識を持つ現実家であり、慎太郎は武市半平太の愛弟子、龍馬は親友という縁も手伝って両者はすぐに意気投合しました。

その後、ふたりが双輪となって働きかけた薩長同盟が慶応2年(1866年)の正月に成立すると、慎太郎はこの功を龍馬に譲り、自身は同年5月武力討幕派になっていた板垣退助を西郷に紹介し、薩摩と土佐との討幕の密命を結ばせています。

同年6月の第二次長州征伐で慎太郎は小倉城攻めに参加し、講和後は九州諸藩を遊説して世論を新長州的なものにするべく務めました。

さらに慶応3年(1867年)2月、龍馬とともに土佐脱藩の罪を許された慎太郎は、同年7月に勤王浪士集団を集めた討幕部隊である陸援隊を結成し、本部を土佐の京都白川藩邸に置き、朝廷より倒幕の密勅も下されましたが、その半日前に龍馬の働きかけによって大政奉還の上奏が成され、武力によらない革命が成功してしまいました。

武力による討幕を実行できなかったものの、徒手空拳でこの構想を成し遂げた慎太郎でしたが、慶応3年(1867年)龍馬とともにいるところを刺客に襲われ、30歳の人生に幕を下ろしました。