六倍もの兵力を持つ幕府軍を破った連戦連勝の名軍師「大村益次郎」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1824年~1869年
●死因:暗殺(享年46歳)
●別名:惚太郎、蔵六(通称)、良庵(号)

大村益次郎は、文政8年(1825年)周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に町医者・村田孝益の息子として生まれ、19歳で梅田幽斎に師事し、天保14年(1843年)より広瀬淡窓に儒学を学んだ後、適塾52番目の入門者となりました。

入門1年目に頭角を現し、長崎に遊学してオランダ語をマスターした益次郎は、嘉永2年(1849年)には塾頭に進み、翌年には故郷で開業医となりました。

嘉永6年(1853年)9月28日、伊予宇和島藩の蘭学顧問・二宮敬作に招かれ、翌年1月に藩から上士待遇を与えられた益次郎は、樺崎砲台や蒸気船の設計を行い、安政2年(1855年)には藩の内命で洋学塾を開いています。

翌年、参勤交代に従って江戸へ出た益次郎は、11月1日に蘭学塾・鳩居堂を開き、16日には東京大学の前々身である蕃書調所の教授手伝【助教授】に迎えられ、間もなく幕府の講武所教授にも任ぜられ、江戸一の蘭学者と評されました。

その噂を聞いた木戸孝允や周布政之助によって、万延元年(1860年)江戸藩邸に招かれた益次郎は、文久3年(1863年)8月18年の政変にともなって帰国し、手当防御事務用掛から慶応元年(1865年)の幕府による第二次長州征伐の動きを察知した藩より軍務掛を命じられ、明倫館教授として将校の育成にあたっています。

第二次長州征伐が始まると、益次郎は総司令官として全作戦を指揮し、後には自ら石州口を守る総大将として出陣し、長州を勝利に導きました。

その後の戊辰戦争時でも、長州の重鎮として江戸にて全作戦を監督しましたが、その思考は常に計数的かつ合理主義に貫かれており、例えば慶応4年(1868年)5月15日の彰義隊討伐時、彼は市街への被害を最小限に抑えるため、敵軍を上野に誘導し、さらには敵の逃走経路まで計算して布陣した後、的確な攻撃を加えています。

その戦いは一時激烈を極め、夕刻になっても決着がつかなかったので、海江田信義が昼間のうちにカタを付けるといった益次郎を海江田が難詰しましたが、益次郎は懐中時計を取り出し、この具合なら、もうすぐ戦の始末もつきましょうとつぶやき、その言葉通りその後すぐに上野で火の手が上がり、敵軍は敗走しました。

その後も、彼は奥羽や北越、さらには幕府残党の最後の拠点・函館の戦いも指導し、前線に立つことはなかったものの、明晰なる頭脳で軍を統括して、作戦を成功させていきました。

そして、明治2年(1869年)には、維新の功績で1500石の永代禄を下賜された益次郎は、同年、全軍を掌握する兵部大輔任じられ、近代兵制の整備に取り掛かりました。

同年8月から兵学寮と火薬の選地に取り掛かり、同年8月からは京都に潜伏していましたが、9月4日の夕食中に刺客から襲われ、頭と大腿部に重傷を負い、その結果11月5日に敗血症を起こして死亡し、遺骸は故郷・鋳銭司村に葬られ、御霊は東京九段坂上の招魂社に祀られました。

死に際して、益次郎は「いずれ九州から足利尊氏の如き者が現れる。4ポンド砲を造って大坂に置いておけ」と遺言を残し、また木戸孝允や弟子である山田顕義に対反乱軍の軍備を勧めています。

この予言は見事に的中し、遺言に従って大阪に備蓄されていた兵器弾薬は、後に起こった西南戦争で活用されました。