吉田松陰の意思を激しく実践し、戦場に散った秀才「久坂玄瑞」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1840年~1864年
●死因:自刃(享年25歳)
●別名:秀三郎、誠、義助(通称)

天保11年(1840年)、長州藩寺社組本道医・良迪(よしみち)の次男として萩城下に生まれました久坂玄瑞は、15歳で父と兄を失い、久坂家の当主になっています。

17歳のときに九州へ遊学し、熊本の宮部鼎蔵(ていぞう)らと交流を深め、安政3年(1856年)6月、松下村塾最初の入門者となりました。

後に同塾の四天王【久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一】の筆頭格、さらには晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれ、玄瑞を見込んだ吉田松陰は、実妹の文と結婚させました。

その松陰は久坂に対して「防長第一流の人物たり、因て亦、天下の英才なり」という最高の評価を与えています。

その玄瑞は早くから攘夷の志を抱いて諸藩の志士と交わり、謹慎中で萩から動けないでいる松陰のため情報収集活動を行いました。

その松陰が安政の大獄によって刑死した後、その遺志を継いで尊攘運動の先頭で活躍し、「航海遠略策」で藩論が公武合体に傾いたときは、桂小五郎らと徹底的に反対しました。

そして藩論を公武合体から尊王攘夷に一変させ、文久3年(1863年)5月、玄瑞自身も下関において外国船砲撃に参加しています。

ここで、玄瑞の呼びかけにより集まった志士たちで結成されたのが光明寺党であり、そのメンバーは松下村塾門下生や尊攘志士が中心で、この光明寺党が後の奇兵隊の元となった組織でした。

玄瑞は長州藩の尊攘派のリーダー格的存在に押し上げられ、攘夷実現の第一歩として天皇の行幸(ぎょうこう)を画策しました。

しかし同年8月18日、京都において政変が発生し、長州藩は京都から追放され、翌年6月5日の池田屋事件によって、京都において一時は隆盛を誇った長州藩の声望も一気に落ちてしまいました。

この現実にいきり立った長州藩の三家老や来島又兵衛らに対し、玄瑞は自重論を唱え挙兵を反対しましたが、暴発を止めることが出来ず、総兵力2000とともに進撃を開始し、元治元年(1864年)7月19日、京都市街において激しい戦闘が開始しました。

これがいわゆる禁門の変で、戦い自体は1日で終結しましたが、京都は3日に渡って燃え続けました。

この戦闘が行われた日、捕まえられていた多くの尊攘志士日が処刑され、長州軍も全滅に近い被害を受けて潰走しています。

そして玄瑞も、同志の寺島忠三郎と二人で鷹司帝に立て籠もり、寺島の「もうやろうか」という問いに、「もうよかろう」と答えて切腹し、自分で首を掻き切りました。

ちなみに長州の源氏ボタルは7日の命といわれ、25歳だった玄瑞もこの源氏ボタルのように美しく短命な一生を終えました。

また、戦死する前年の正月、萩の長宗純三を訪ねた玄瑞は、ふるまわれた雑煮を何杯もおかりし、結局30個もの餅をたいらげました。

驚いた様子の家の娘に「私は近いうちに死ぬかもしれないから、一生分の餅をいただいたのだよ」と話したという逸話も残っています。