幕府のために士道をつらぬいた新撰組の鬼の副長「土方歳三」

●出身地:武蔵国多摩郡(東京都)
●生没年:1835年~1869年
●死因:戦死(享年35歳)
●別名:義豊(諱(いみな))、内藤隼人(変名)

天保6年(1835年)、多摩石田村の裕福な農家に生まれた土方歳三でしたが、父とは生まれる前に死別しており、兄夫婦に養われました。

若き日の土方は、散薬の行商をしながら武州内の道場を渡り歩き、そんな中で天然理心流道場に出入りするようになり、以後の人生をともにする近藤勇と知り合いました。

よく知られていることですが、土方はまるで俳優のように容姿端麗で、身長は5尺5寸ほどあり、また若いころから大変な女好きともいわれており、丁稚の身で女中と恋仲になった土方は、奉公先の佐藤家に迷惑をかけたという話が残っています。

その後、浪士組に参加したが当初はさほど目立たなかった土方でしたが、芹沢一派を粛清して副長に就いた後は、隊内で権力を一手に掌握し、組織作りに励んで、新撰組の隊規「局中法度」という、破るとただちに切腹を言い渡される非常に厳しい掟の発布にも一枚噛んでいると思われます。

また、新撰組には戦闘時、一番に敵中に切り込むものが決められており、これは「死番」と呼ばれる交代制の役目で、戦死する可能性がとても高く危険なものでしたが、こういった戦術を考案したのも土方でないかといわれています。

元治元年(1864年)6月5日早朝、古高俊太郎が捕縛され、厳しい拷問の末、京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致するという尊攘派の恐ろしい計画を掴んだ新撰組は、ただちに行動を開始し、これによって池田屋の惨劇が引き起こされ、宮部鼎蔵や吉田稔麿などの人材が一夜で失われたため維新が大幅に遅れたと考えられています。

池田屋の変以降、新撰組は隊士を大幅に増やし、最盛期を迎えましたが、この時期には粛清も数多く行われましたが、この粛清は新撰組を存続させるうえで必要不可欠な措置でした。

薩長連合の成立以後、幕府側は窮地に立たされ、その配下にある新撰組も例外ではなく、鳥羽伏見の戦いの後、新撰組は組織を立て直せないまま江戸へ落ち延びました。

生き残りは雑兵を加えて甲陽鎮舞台に改変されましたが、戦況は悪化の一途をたどり、部隊は流山に移陣するも降伏し、その際に近藤は土方らを逃すために会えて投降、これが幼少時以来の親友との永遠の別れとなり、さらには結成以来の戦友・永倉新八らとも決別しました。

土方はその後も、会津・白河・仙台と転戦し、その間ともに戦ってきた新撰組古参メンバーは次々と戦死・投降していくものの、その屍を乗り越えて、土方は北へ北へと進んでいきました。

仙台で合流した榎本武揚軍に参加し、蝦夷に渡った土方は、ここで蝦夷共和国陸軍奉行並に命じられ、函館五稜郭に立て籠もった土方は小姓の市村鉄之助に自身の写真や手紙、長らく愛用してきた銘刀・和泉守兼定を託して、出陣していきました。

その土方の最後については場所も状況も諸説ありますが、はっきりしているのは明治2年(1869年)5月11日に銃撃を受けて死んだことだけです。

尚、榎本武揚以下蝦夷共和国首脳陣はその後降伏し、明治政府の寛大な処置で多くが生き延びていますが、死への旅の途中で次々と仲間を失った土方にとっては生き続けることは耐え難い屈辱だったと思えわれます。