江戸無血開城の大役を果たした、まっすくな誠心の「山岡鉄舟」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1836年~1888年
●死因:病死(享年53歳)
●別名:鉄太郎(通称)

山岡鉄舟は天保7年(1836年)6月10日、江戸の蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれ、9歳から久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を、また父が招いた井上清虎から北辰一刀流を学びました。

母方は剣豪・塚原卜伝の家系で、武術には生れつきの才能があった鉄舟は、安政2年(1855年)に講武所に入って、千葉周作に剣術、また山岡静山に忍心流槍術を学びましたが、静山が急死した後、静山の実弟・高橋泥舟らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となりました。

安政3年(1856年)には剣道の技量抜群によって、講武所の世話役となり、安政4年(1857年)には清河八郎ら15人と尊王攘夷を旗印とした「虎尾の会」を結成しています。

文久2年(1862年)、江戸幕府によって浪士組が結成されると、親友の中條金之助とともに取締役となり、文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するものの、清川八郎が反幕と攘夷の立場を鮮明にすると、鉄舟も疑われて、江戸に呼び戻され、その直後、外国使節の警護を拒否し、謹慎処分を受けています。

この頃、中西派一刀流・浅利又七郎と試合をするが、勝てず弟子入りし、この頃から剣への求道が一段と厳しくなりました。

慶応4年(1868年)2月11日、江戸城重臣会議において謹慎の意を表した徳川慶喜は、勝海舟に全権を委ねて上野寛永寺に籠り謹慎しており、その状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送るために高橋泥舟を使者にしようとしたが、泥舟は慶喜警護から離れることができなかったため、高橋泥舟の推薦によって3月9日、鉄舟は勝と東征軍参謀である西郷隆盛の会談に先立って、官軍の駐留する駿府に向かいました。

この時、死罪にされるはずだった薩摩藩士・益満休之助とともに東海道を歩いていき、兵士に見つかると「幕臣・山岡が命により西郷参謀と面会するのだ。首を打ちたければ打て」と毅然として通り抜けたと言われています。

駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みましたが、その際に、西郷から以下の5つの条件を提示されました。
• 一、江戸城を明け渡す。
• 一、城中の兵を向島に移す。
• 一、兵器をすべて差し出す。
• 一、軍艦をすべて引き渡す。
• 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ鉄舟に対して、西郷はこれは朝命であると凄んだものの、逆に鉄舟は、もし島津侯が将軍・慶喜と同じ立場であったら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論しています。

その言葉を受けた西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るために死を覚悟して単身敵陣に乗り込んだうえ、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、さらにその主張をもっともだ、として将軍・慶喜の身の安全を保証しました。

西郷との会見で、江戸での全面戦争を回避し、江戸城無血開城の下地を作った鉄舟は維新後、徳川家に従って静岡に移り、静岡藩権大参事、明治5年(1872年)には特別の要請によってまだ幼い天皇の侍従になり、相撲で天皇を投げ飛ばすなど、厳しい教育を施したと言われています。

その後も剣と禅の奥義を追求し、鉄舟は無刀流を編み出しています。