情熱と冷静さを兼ね備えた薩摩藩のリーダー「西郷隆盛」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1827年~1877年
●死因:西南戦争で自刃(享年51歳)
●別名:隆永(諱(いみな))、吉之助(通称)

西郷隆盛は、文政10年(1827年)12月7日、鹿児島市街を流れる甲突川に沿った下鍛冶町で、父の御小姓与・西郷吉兵衛隆盛、母の椎原満佐の子として生まれました。

隆盛は体格が大きく、黒曜石のように澄んだ瞳を持っており、昔から正義感が強く争いを好まない温和な性格で、口数も少ない性格でした。

弘化2年(1845年)、隆盛は18歳で郡方書役助(収税書記官見習い)になり、以後10年以上もこの仕事に携わりました。

その間、農政に関する上申を何度も行い、藩主・島津斉彬に認められ、安政元年(1854年)御庭方(藩主私用秘書官)に任命されました。

改名的な藩主であった斉彬の薫陶を受け、さらに水戸の藤田東湖、戸田蓬軒、橋本佐内など、一流の人物に接して、人格を磨き上げ、主君以上に恩師であった斉彬が亡くなったのち、その志を継いでいきました。

斉彬の死後、隆盛は安政の大獄から尊攘派の僧侶・月照を匿ったが、新しく藩主となった島津久光はこれを許さず、錦江湾においてふたりして入水自殺を図りました。

しかし隆盛のみ奇跡的に息を吹き返したものの、その後二度の島流しとなりましたが、元治元年(1864年)急進派に説得された久光によって呼び戻され、そこから隆盛の中央政界での活躍が始まりました。

盟友・大久保利通とともに禁門の変・第一次長州征伐に参加した隆盛は幕府の衰え悟り、その後は薩長同盟・鳥羽伏見の戦い・王政復古の大号令・江戸城無血開城・戊辰戦争など、幕末に起こった多くの事件に主役として関わりました。

戊辰戦争後、隆盛は新政府入りを辞退し、鹿児島に戻っていたが、大久保や木戸孝允からその優れた政治手腕を頼られ、再び中央政界に呼び戻され、隆盛の尽力で廃藩置県はなされました。

国内の政情も安定してきた中、大久保や岩倉具視らは外遊に出発、その間に政府を任されていた隆盛は征韓論を提唱していたが、外遊から戻った大久保らに猛反対され、この政争に敗北した隆盛は再び野に下りました。

隆盛は大隅半島の小根占で隠棲生活を送っていましたが、そんな隆盛に明治10年(1877年)2月1日、実弟の西郷小兵衛と元近衛陸軍大尉・辺見十郎太が前後して訪れました。

その内容は、大警視の川路利良が隆盛の命を狙い、墓参りという名目で帰省した二等小警視・中原尚雄らに暗殺命令を出している。

さらに、さる1月政府が鹿児島草牟田の陸軍火薬庫から密かに弾薬を運び出したことを知った私学校の生徒が激怒して軍施設を襲撃したというものでした。

2月5日に私学校の大講堂で挙兵が議決され、その際に隆盛は「この身体は、お前さあたちにさしあげもんそ」と静かに言いました。

明治10年(1877年)3月4日、進軍した私学校軍は2万3千の兵で熊本城を囲みましたが、冷静な戦略を持たなかったこともあり、次第に劣勢に立たされ、5ヶ月に渡って九州各地を転戦した後、城山にたどり着いた時には将兵は400以下でした。

同年9月24日、隆盛は政府軍5万を前にして一兵卒として突撃するものの腿を銃弾に貫かれ、倒れた彼は別府晋介に介錯を命じて、切腹して果てました。

しかし、明治22年(1889年)には明治天皇より維新の功労者として正三位を与えられています。