自由奔放な発想力で幕末を駆け抜けた時代の寵児「坂本龍馬」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1835年~1867年
●死因:暗殺(享年33歳)
●別名:直柔(諱(いみな))、才谷梅太郎(変名)

坂本龍馬は天保6年(1835年)、豪商で知られた才谷屋を本家とする郷士で裕福な坂本家に生まれました。

幼少期から泣き虫で、塾の先生に見放されるほど愚鈍であった龍馬は幼くして母を亡くしていましたが、そんな龍馬を育て上げたのは姉の乙女でした。

龍馬は乙女の勧めで、小栗流・日根野弁治の剣術道場に入門し、龍馬はたちまち頭角を現し、19歳の若さで小栗流の目録を得ましたが、この剣術が龍馬の人生を変えました。

剣術に己の生きる道を見出した龍馬は、修行のために故郷を後にし、江戸に出た彼は北辰一刀流で名を馳せる千葉周作の弟・千葉定吉の京橋桶町道場に入門、ここでも群を抜いた腕前を見せています。

そんな中の嘉永6年(1853年)6月にペリーの来航と江戸湾侵入事件が起こり、龍馬も江戸在府藩士に交じって品川の海岸警備に加わりました。

ちょうどこの頃に龍馬は佐久間像山を訪ねて様式砲術を学び、また同郷で縁戚の武市半平太とも親交を深めていきました。

その武市は熱烈な水戸学派勤王志士で、龍馬にも勤王思想を説きましたが、尊王攘夷論を支持していたものの現実的な考え方をする龍馬にとっては面白くなかったようで、安政の大獄が起こった安政5年(1858年)に剣術修行を終えた龍馬あっさりは江戸を後にしました。

北辰一刀流の免許皆伝を得て土佐に戻った龍馬でしたが、周囲の期待を裏切って、蘭学の勉強をし、また河田小龍のもとで海外の知識を仕入れ、後には武市の土佐勤王党に参加して長州などの状況を調べていましたが、勤王党にも土佐藩にも見切りをつけ、脱藩をしています。

江戸の千葉道場に戻った龍馬は、文久2年(1862年)、攘夷思想にかぶれた千葉重太郎に誘われ、幕臣・勝海舟の暗殺に向かいましたが、勝の貿易論や海防策などの現実的な構想に触れた龍馬はその場で勝の門弟になりました。

勝は龍馬をかわいがり、幕府の軍艦操練所に入れ、幕閣や諸藩の重要人物に紹介したことが、ただの浪人であった龍馬が天下の志士として活動できるようになった要因でした。

文久3年(1863年)8月18日の政変の影響で土佐にも政変が起こり、山内容堂が勤王党を弾圧し、藩政を改革したうえ、龍馬にも帰国命令が下りましたが、龍馬はこれを無視し勝について九州へ向かい西郷や小松、大久保と出会っています。

その後、長崎に出た龍馬は浪人結社・亀山社中を設立し、さらに慶応2年(1866年)正月には薩長同盟を締結させています。

同盟成立の翌日、龍馬は伏見の寺田屋に戻った際、補士に強襲されましたが、お竜の通報によって窮地を脱し、薩摩藩に保護されたうえ、お竜と共に薩摩へ旅行し、これが日本初の新婚旅行といわれています。

そんな中、長州は幕府より2度の征伐を受け、1度目は降伏したものの、2度目は薩長同盟により兵力を強化していたため退けるのに成功し、その際龍馬も海戦で活躍しています。

その戦いの後、土佐藩に招かれた龍馬は家老である後藤象二郎と会見、そして土佐藩の後援を得て本格的に海運と貿易事業に乗り出しました。

商務に飛び回る龍馬は後藤から幕府を今後どうするかという相談を受け、平和的な解決法「船中八策」を提供し、これを土佐藩の公論として建白書を提出した結果、慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還が実現しました。

しかし同年11月15日、刺客の一団に襲撃された龍馬は33歳の人生を終えました。