土佐藩を尊王攘夷の中心へ、という思いの実現に殉じた「武市半平太」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1829年~1865年
●死因:切腹(享年37歳)
●別名:瑞山(号)、小盾(諱(いみな))、柳川左門(変名)

土佐藩の武士には、上士と郷士の2種類あり、そのうちの郷士は徹底的に差別されたが、武市半平太が生まれた家は、この身分差別の唯一の例外である郷士の中でも白札と呼ばれる特別な身分で、最下級の上士として藩政にも参加できました。

半平太は幼少より文武に秀で、特に剣術は一刀流の千堂伝四郎やあ麻田勘七に学んで、免許皆伝を授けられるほどで、安政元年(1854年)には高知城下で道場を開いています。

また半平太は身長6尺(約180cm)の偉丈夫ながら、色白の涼しげな容貌で頭脳明晰、さらには人柄も穏やかで誰からも愛されたといわれています。

安政3年(1856年)、半平太は藩命によって江戸へ遊学し、江戸三大道場のひとつ鏡心明智流で天下に名高い桃井春蔵の道場に入り、翌年には塾頭となって、後進の指導に当たる一方、文の道では国学者・徳永千規や書家・島崎七助について学問や書を習うなど、半平太ほどの文武器量を備えた人物は天下に何人もいませんでした。

半平太には、土佐の勤王派をまとめて反論を動かす力とし、その後自ら藩政を動かして藩全体を勤王化し、他藩とも連携しながら尊王攘夷の活動を時代の本流として、最後には幕府を倒し朝廷を奉じて新しい政府を樹立するという構想がありました。

安政5年(1858年)9月5日、大老に就任した井伊直弼が行った安政の大獄によって全国の多くの勤王志士は処断されてしまったものの、安政7年(1860年)大老の井伊が桜田門外で討ち取られると、江戸へ出て長州・薩摩・水戸の藩士らと4藩共同での尊王攘夷と討幕の計画を練ったうえ、土佐へ戻りました。

帰国後、大石弥次郎や島村衛吉、池内蔵太ら同志を集め、土佐勤王党を結成し、この勤王党は郷士ら軽格の集まりとはいえ、藩も無視できない勢力となっていきました。

さっそく半平太は、土佐藩主の腹心である吉田東洋を訪ね、藩論として尊王攘夷論を献策したが、拒否されてしまい、そのことを聞いた勤王党同志の中でも過激派の那須慎吾らは文久3年(1862年)4月、東洋を暗殺しました。

その直後、半平太は土佐藩を思い通りに動かすため、尊王攘夷主義の重臣・小南五郎右衛門を復職させて、勤王党の上士を要職につけて、藩論を勤王一色に塗り替えることに成功しました。

さらに半平太は、京都藩邸に勤王党員を派遣し、活動させる一方で、山内家に縁のある公卿を動かして朝廷工作を行う、というように一流の政治家として能力を発揮していきました。

しかしこの繁栄もわずか2年足らずで、文久3年(1863年)、藩の暴走を不満に思う藩主・山内容堂が改革に乗り出し、これによって藩首脳部は処断され、勤王党に対しても大弾圧が行われました。

そして禁門の変によって尊王攘夷活動の最右翼である長州勢力が京都から駆逐されたことにより、半平太もついに投獄されました。

藩庁は半平太を取り調べる一方で、獄にある勤王党同志らを激しい拷問にかけるものの、だれも白状しませんでしたが、岡田以蔵の捕縛・自白によって、慶応元年(1865年)5月、37歳の武市半平太は切腹して果てました。

いち早く薩長同盟の実現に奔走した坂本龍馬の盟友「中岡慎太郎」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1838年~1867年
●死因:暗殺(享年30歳)
●別名:光次(通称)、道正(諱(いみな))、石川誠之助(変名)

土佐藩北川郷の大庄屋の家に生まれた中岡慎太郎は、7歳で隣村の島村岱作(たいさく)の私塾へ通い、14歳で岡本寧甫(ねいほ)や高松順蔵の塾、さらに15歳で間崎滄浪(そうろう)の門を叩くなど、当時から第一級の知識人だったと思われます。

また慎太郎は武にも長じ、18歳で武市半平太の道場に入門した彼は、居合術が得意だったといわれています。

病の父に代わって、20歳で庄屋見習いになった慎太郎は、文久元年(1861年)に旗揚げして間もない土佐勤王党に加盟し、志士としての活動を始めました。

文久3年(1863年)、京都の藩邸に着いた徒目付他藩応接密事用に任じられましたが、山内容堂が勤王派の暴走を恐れ、藩政改革に乗り出したことにより罷免されています。

さらに勤王党の大弾圧が行われたため、京都に残っていた慎太郎は三条実美ら勤王七卿を訪ねて長州を訪れ、その足で土佐藩に帰国したものの、藩内の状況に絶望した慎太郎は脱藩し、長州へ出奔しました。

長州入りした慎太郎は、高杉晋作ら長州藩重臣と会う一方、七卿を慕って長州に来ていた土方楠左衛門ら土佐浪士5人と語らい七卿の身辺警護をさせる一方、長州藩内に忠勇隊という浪士部隊を組織させています。

その後、慎太郎は再び京都に上り、諸藩や幕府の動向を探るほか、薩摩の西郷隆盛や長州の木戸孝允と会談するなど、京と大阪を中心に奔走しています。

この時期の慎太郎は、ほとんど長州藩士として活動しており、禁門の変で進退窮まった長州藩の復権に努め、また幕府寄りだった薩摩に対して互いに歩み寄るよう働きかける一方で、武力による倒幕論を説き、遊撃隊に参加して奮戦しています。

禁門の変で朝敵となった長州に対し、幕府軍の征伐が始まりましたが、慎太郎は池内蔵太らとともに長州藩内の軍備を助けて活動し、さらに薩摩の西郷に薩長連合の必要性を説くかたわらで土佐の板垣退助や福岡孝弟らとも密会し、説得にあたっています。

記録によると、慎太郎が坂本龍馬と初めて会ったのは、慶応元年(1865年)のことで、慎太郎は攘夷討幕論、龍馬は開国討幕論と思想は異なっていたものの、ともに広い視野と見識を持つ現実家であり、慎太郎は武市半平太の愛弟子、龍馬は親友という縁も手伝って両者はすぐに意気投合しました。

その後、ふたりが双輪となって働きかけた薩長同盟が慶応2年(1866年)の正月に成立すると、慎太郎はこの功を龍馬に譲り、自身は同年5月武力討幕派になっていた板垣退助を西郷に紹介し、薩摩と土佐との討幕の密命を結ばせています。

同年6月の第二次長州征伐で慎太郎は小倉城攻めに参加し、講和後は九州諸藩を遊説して世論を新長州的なものにするべく務めました。

さらに慶応3年(1867年)2月、龍馬とともに土佐脱藩の罪を許された慎太郎は、同年7月に勤王浪士集団を集めた討幕部隊である陸援隊を結成し、本部を土佐の京都白川藩邸に置き、朝廷より倒幕の密勅も下されましたが、その半日前に龍馬の働きかけによって大政奉還の上奏が成され、武力によらない革命が成功してしまいました。

武力による討幕を実行できなかったものの、徒手空拳でこの構想を成し遂げた慎太郎でしたが、慶応3年(1867年)龍馬とともにいるところを刺客に襲われ、30歳の人生に幕を下ろしました。

自由奔放な発想力で幕末を駆け抜けた時代の寵児「坂本龍馬」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1835年~1867年
●死因:暗殺(享年33歳)
●別名:直柔(諱(いみな))、才谷梅太郎(変名)

坂本龍馬は天保6年(1835年)、豪商で知られた才谷屋を本家とする郷士で裕福な坂本家に生まれました。

幼少期から泣き虫で、塾の先生に見放されるほど愚鈍であった龍馬は幼くして母を亡くしていましたが、そんな龍馬を育て上げたのは姉の乙女でした。

龍馬は乙女の勧めで、小栗流・日根野弁治の剣術道場に入門し、龍馬はたちまち頭角を現し、19歳の若さで小栗流の目録を得ましたが、この剣術が龍馬の人生を変えました。

剣術に己の生きる道を見出した龍馬は、修行のために故郷を後にし、江戸に出た彼は北辰一刀流で名を馳せる千葉周作の弟・千葉定吉の京橋桶町道場に入門、ここでも群を抜いた腕前を見せています。

そんな中の嘉永6年(1853年)6月にペリーの来航と江戸湾侵入事件が起こり、龍馬も江戸在府藩士に交じって品川の海岸警備に加わりました。

ちょうどこの頃に龍馬は佐久間像山を訪ねて様式砲術を学び、また同郷で縁戚の武市半平太とも親交を深めていきました。

その武市は熱烈な水戸学派勤王志士で、龍馬にも勤王思想を説きましたが、尊王攘夷論を支持していたものの現実的な考え方をする龍馬にとっては面白くなかったようで、安政の大獄が起こった安政5年(1858年)に剣術修行を終えた龍馬あっさりは江戸を後にしました。

北辰一刀流の免許皆伝を得て土佐に戻った龍馬でしたが、周囲の期待を裏切って、蘭学の勉強をし、また河田小龍のもとで海外の知識を仕入れ、後には武市の土佐勤王党に参加して長州などの状況を調べていましたが、勤王党にも土佐藩にも見切りをつけ、脱藩をしています。

江戸の千葉道場に戻った龍馬は、文久2年(1862年)、攘夷思想にかぶれた千葉重太郎に誘われ、幕臣・勝海舟の暗殺に向かいましたが、勝の貿易論や海防策などの現実的な構想に触れた龍馬はその場で勝の門弟になりました。

勝は龍馬をかわいがり、幕府の軍艦操練所に入れ、幕閣や諸藩の重要人物に紹介したことが、ただの浪人であった龍馬が天下の志士として活動できるようになった要因でした。

文久3年(1863年)8月18日の政変の影響で土佐にも政変が起こり、山内容堂が勤王党を弾圧し、藩政を改革したうえ、龍馬にも帰国命令が下りましたが、龍馬はこれを無視し勝について九州へ向かい西郷や小松、大久保と出会っています。

その後、長崎に出た龍馬は浪人結社・亀山社中を設立し、さらに慶応2年(1866年)正月には薩長同盟を締結させています。

同盟成立の翌日、龍馬は伏見の寺田屋に戻った際、補士に強襲されましたが、お竜の通報によって窮地を脱し、薩摩藩に保護されたうえ、お竜と共に薩摩へ旅行し、これが日本初の新婚旅行といわれています。

そんな中、長州は幕府より2度の征伐を受け、1度目は降伏したものの、2度目は薩長同盟により兵力を強化していたため退けるのに成功し、その際龍馬も海戦で活躍しています。

その戦いの後、土佐藩に招かれた龍馬は家老である後藤象二郎と会見、そして土佐藩の後援を得て本格的に海運と貿易事業に乗り出しました。

商務に飛び回る龍馬は後藤から幕府を今後どうするかという相談を受け、平和的な解決法「船中八策」を提供し、これを土佐藩の公論として建白書を提出した結果、慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還が実現しました。

しかし同年11月15日、刺客の一団に襲撃された龍馬は33歳の人生を終えました。

六倍もの兵力を持つ幕府軍を破った連戦連勝の名軍師「大村益次郎」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1824年~1869年
●死因:暗殺(享年46歳)
●別名:惚太郎、蔵六(通称)、良庵(号)

大村益次郎は、文政8年(1825年)周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に町医者・村田孝益の息子として生まれ、19歳で梅田幽斎に師事し、天保14年(1843年)より広瀬淡窓に儒学を学んだ後、適塾52番目の入門者となりました。

入門1年目に頭角を現し、長崎に遊学してオランダ語をマスターした益次郎は、嘉永2年(1849年)には塾頭に進み、翌年には故郷で開業医となりました。

嘉永6年(1853年)9月28日、伊予宇和島藩の蘭学顧問・二宮敬作に招かれ、翌年1月に藩から上士待遇を与えられた益次郎は、樺崎砲台や蒸気船の設計を行い、安政2年(1855年)には藩の内命で洋学塾を開いています。

翌年、参勤交代に従って江戸へ出た益次郎は、11月1日に蘭学塾・鳩居堂を開き、16日には東京大学の前々身である蕃書調所の教授手伝【助教授】に迎えられ、間もなく幕府の講武所教授にも任ぜられ、江戸一の蘭学者と評されました。

その噂を聞いた木戸孝允や周布政之助によって、万延元年(1860年)江戸藩邸に招かれた益次郎は、文久3年(1863年)8月18年の政変にともなって帰国し、手当防御事務用掛から慶応元年(1865年)の幕府による第二次長州征伐の動きを察知した藩より軍務掛を命じられ、明倫館教授として将校の育成にあたっています。

第二次長州征伐が始まると、益次郎は総司令官として全作戦を指揮し、後には自ら石州口を守る総大将として出陣し、長州を勝利に導きました。

その後の戊辰戦争時でも、長州の重鎮として江戸にて全作戦を監督しましたが、その思考は常に計数的かつ合理主義に貫かれており、例えば慶応4年(1868年)5月15日の彰義隊討伐時、彼は市街への被害を最小限に抑えるため、敵軍を上野に誘導し、さらには敵の逃走経路まで計算して布陣した後、的確な攻撃を加えています。

その戦いは一時激烈を極め、夕刻になっても決着がつかなかったので、海江田信義が昼間のうちにカタを付けるといった益次郎を海江田が難詰しましたが、益次郎は懐中時計を取り出し、この具合なら、もうすぐ戦の始末もつきましょうとつぶやき、その言葉通りその後すぐに上野で火の手が上がり、敵軍は敗走しました。

その後も、彼は奥羽や北越、さらには幕府残党の最後の拠点・函館の戦いも指導し、前線に立つことはなかったものの、明晰なる頭脳で軍を統括して、作戦を成功させていきました。

そして、明治2年(1869年)には、維新の功績で1500石の永代禄を下賜された益次郎は、同年、全軍を掌握する兵部大輔任じられ、近代兵制の整備に取り掛かりました。

同年8月から兵学寮と火薬の選地に取り掛かり、同年8月からは京都に潜伏していましたが、9月4日の夕食中に刺客から襲われ、頭と大腿部に重傷を負い、その結果11月5日に敗血症を起こして死亡し、遺骸は故郷・鋳銭司村に葬られ、御霊は東京九段坂上の招魂社に祀られました。

死に際して、益次郎は「いずれ九州から足利尊氏の如き者が現れる。4ポンド砲を造って大坂に置いておけ」と遺言を残し、また木戸孝允や弟子である山田顕義に対反乱軍の軍備を勧めています。

この予言は見事に的中し、遺言に従って大阪に備蓄されていた兵器弾薬は、後に起こった西南戦争で活用されました。

吉田松陰の意思を激しく実践し、戦場に散った秀才「久坂玄瑞」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1840年~1864年
●死因:自刃(享年25歳)
●別名:秀三郎、誠、義助(通称)

天保11年(1840年)、長州藩寺社組本道医・良迪(よしみち)の次男として萩城下に生まれました久坂玄瑞は、15歳で父と兄を失い、久坂家の当主になっています。

17歳のときに九州へ遊学し、熊本の宮部鼎蔵(ていぞう)らと交流を深め、安政3年(1856年)6月、松下村塾最初の入門者となりました。

後に同塾の四天王【久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一】の筆頭格、さらには晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれ、玄瑞を見込んだ吉田松陰は、実妹の文と結婚させました。

その松陰は久坂に対して「防長第一流の人物たり、因て亦、天下の英才なり」という最高の評価を与えています。

その玄瑞は早くから攘夷の志を抱いて諸藩の志士と交わり、謹慎中で萩から動けないでいる松陰のため情報収集活動を行いました。

その松陰が安政の大獄によって刑死した後、その遺志を継いで尊攘運動の先頭で活躍し、「航海遠略策」で藩論が公武合体に傾いたときは、桂小五郎らと徹底的に反対しました。

そして藩論を公武合体から尊王攘夷に一変させ、文久3年(1863年)5月、玄瑞自身も下関において外国船砲撃に参加しています。

ここで、玄瑞の呼びかけにより集まった志士たちで結成されたのが光明寺党であり、そのメンバーは松下村塾門下生や尊攘志士が中心で、この光明寺党が後の奇兵隊の元となった組織でした。

玄瑞は長州藩の尊攘派のリーダー格的存在に押し上げられ、攘夷実現の第一歩として天皇の行幸(ぎょうこう)を画策しました。

しかし同年8月18日、京都において政変が発生し、長州藩は京都から追放され、翌年6月5日の池田屋事件によって、京都において一時は隆盛を誇った長州藩の声望も一気に落ちてしまいました。

この現実にいきり立った長州藩の三家老や来島又兵衛らに対し、玄瑞は自重論を唱え挙兵を反対しましたが、暴発を止めることが出来ず、総兵力2000とともに進撃を開始し、元治元年(1864年)7月19日、京都市街において激しい戦闘が開始しました。

これがいわゆる禁門の変で、戦い自体は1日で終結しましたが、京都は3日に渡って燃え続けました。

この戦闘が行われた日、捕まえられていた多くの尊攘志士日が処刑され、長州軍も全滅に近い被害を受けて潰走しています。

そして玄瑞も、同志の寺島忠三郎と二人で鷹司帝に立て籠もり、寺島の「もうやろうか」という問いに、「もうよかろう」と答えて切腹し、自分で首を掻き切りました。

ちなみに長州の源氏ボタルは7日の命といわれ、25歳だった玄瑞もこの源氏ボタルのように美しく短命な一生を終えました。

また、戦死する前年の正月、萩の長宗純三を訪ねた玄瑞は、ふるまわれた雑煮を何杯もおかりし、結局30個もの餅をたいらげました。

驚いた様子の家の娘に「私は近いうちに死ぬかもしれないから、一生分の餅をいただいたのだよ」と話したという逸話も残っています。

生まれながらの革命児で、倒幕の狼煙を挙げた「高杉晋作」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1839年~1867年
●死因:病死(享年29歳)
●別名:春風(諱(いみな))、谷潜蔵(変名)

高杉晋作は、天保10年(1839年)8月20日、萩の150石取り大組の家、高杉小忠太の長男として誕生しました。

高杉家は上士の家柄で、小忠太は藩政に携わり、晋作自身も22歳で藩の次代重役候補である小姓役に就任しています。

晋作は、14歳の頃から藩校の明倫館に通っていましたが、学問よりも剣術の方を好み、修練を積んで柳生新陰流免許皆伝の腕前になりました。

そんな晋作は安政4年(1857年)、学友の久坂玄瑞に誘われ吉田松陰の門を叩くものの、家のものが松陰に学ぶのを快く思わなかったため、家人が寝静まってから松下村塾への3kmの道を通い、安政7年(1860年)1月23日には井上家の政子と結婚しました。

その後の文久元年(1861年)、晋作はすでに列藩によって反植民地化されている上海に2ヶ月滞在した際、西洋文明を導入しなければ、日本は世界から取り残されて滅んでしまうので、むやみに開国するのではなく、封建制度を廃して近代国家を作らなければと考えました。

そのため江戸にもどった晋作は尊攘思想を選び、資金と同志をかき集めて御盾組を結成して攘夷活動に乗り出しています。

文久3年(1863年)、長州は攘夷の口火を切って外国船を砲撃しましたが、猛反撃を食らい大敗を喫したため、藩主・毛利敬親は晋作に軍備の立て直しを命じました。

晋作は西洋軍制に習った軍隊で、かつ身分を問わず志を同じくする者を集めた軍隊「奇兵隊」を結成し、結成当初は暴力事件など問題を起こしたものの、対外的に危機に脅かされる長州藩内では、奇兵隊に続く各種の軍事組織が次々と結成されるなど、奇兵隊も公認されていきました。

元治元年(1864年)8月5日、先の砲撃を受けた英仏米蘭の4か国連合艦隊が馬関の前田砲台を攻撃し、長州は惨敗しましたが、奇兵隊の起こした問題の責任を取って謹慎していた晋作が呼び出され、長州は幕府の命令で攘夷を行ったので賠償は幕府がすべきだと説いて、この講和交渉を成功させました。

ただ、この頃から第一次長州征伐が本格化し始め、長州にも幕府恭順派・俗論党が台頭し、長州はその藩論を一変させたため、長州は一戦も交えることなく降伏し、晋作も九州へ逃亡しました。

しかし、12月なって再び故郷へ舞い戻った晋作は、たった80名の同志と討ち死に覚悟のクーデターを起こして奇跡的に成功を収めました。

その後の慶応元年(1865年)11月、再び倒幕色に染まった長州に対して、幕府は第二次長州征伐を決定したため、もはや決戦を避けられない長州は総勢4000の藩兵と諸隊を4か所の国境に配置し防戦しました。

その長州に対して幕府側の兵力は総勢15万と絶望的な戦いになるはずだったが、晋作による停泊中の幕府艦隊に対する奇襲をはじめ、新兵器の保有数や地理などの情報面での優位性などによって勝ちを治めました。

しかしながら慶応2年(1866年)10月20日、晋作は病で職を退き、療養生活に入りましたが、翌年4月14日の未明にその短い生涯を終えました。

中原邦平の伝記によると、晋作はいったん意識を取り戻して筆をとり、「おもしろき こともなき世をおもしろく」とまで書き、枕元にいた望東尼がこれに続け「すみなすものは 心なりけり」と書くと、「おもしろいのう」とほほ笑んで、息絶えたとなっています。

冷静な判断力を持って、度重なる長州藩の危機を救った「木戸孝允」

●出身地:長門国長州藩
●生没年:1833年~1877年
●死因:病死(享年45歳)
●別名:木戸孝允、松菊(号)

木戸孝允は天保4年(1833年)6月26日、萩城下にある呉服町に20石取りの藩医・和田昌景の子として生まれ、8歳で桂九郎兵衛の養子となって、桂家を相続し、しばらくは桂小五郎と名乗っていました。

藩校・明倫館に学んでいたものの、剣の腕も含めてぱっとしない凡庸な少年だったようだが、明倫館で吉田松陰の講義を受けた彼はその才能を大きく開花させました。

嘉永5年(1852年)11月、江戸に留学した孝允は間もなく塾頭となり、またその留学中に西洋兵学や砲術、造船、蘭学を学びましたがいずれも中途半端な修行で、時局や人物の才を見極める目を養ったことや、多数の公家や志士と知り合えたことが、この留学中に得た最大の収穫でした。

その後孝允は、25歳で藩の公職に就き、26歳で大検視・江戸番手に奉職し、30歳で祐筆に取り立てられています。

安政3年(1856年)、世間では違勅問題と将軍継嗣問題などにより時代は大きく揺れ始め、萩に幽閉されていた吉田松陰も過激な行動を取るようになってきた。

松陰が造った松下村塾で、孝允は兄貴分であったものの、江戸で諸々の情報を掴んでいた孝允は、現時点での尊攘活動は死を招くと理解していたため、松陰の行動に同調しませんでした。

文久2年(1862年)、長州の藩論は公武合体から尊王攘夷に転換したが、これは時代の流れに逆行した判断で、馬関を通る外国船に砲撃を続ける長州は、次第に世間から浮いていきました。

翌年、京都にて8月18日の政変が発生し、御所は薩摩と会津を中心とする諸藩によって封鎖され、長州は京都から追い落とされました。

しかし、この後も孝允は京都で活動を続け、池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐と事件が続く中、尊攘派にとって最も危険な場所に潜伏し、追手が掛かると剣も取らずに姿を消すことから、人々に「逃げの小五郎」と呼ばれました。

尊攘派はやがては長州からも追われることになりましたが、高杉晋作が挙兵して俗論党を一掃し、元治2年(1865年)3月に革命政権が樹立され、孝允は政治担当者として呼び戻されました。

武力で政権を奪った諸隊の暴走を抑えた孝允は、武備恭順の指針のもとで、長州を幕府に対抗できる独立国家として完成させ、村田蔵六を総司令官兼士官学校教官に据えて、諸隊の再編成と将兵には西洋兵学の訓練を課しました。

慶応2年(1866年)1月、坂本龍馬の協力で薩長同盟を締結させ、薩摩藩経由で新型銃を購入し、後の第二次長州征伐に勝利しました。

やがて明治元年(1868年)に孝允は総裁局顧問、明治2年(1869年)には参議に就任し、同年に藩主の毛利敬親を説いて版籍奉還を率先して断行させました。

明治4年(1871年)に岩倉使節団の一員としての渡欧の後は、欧米列強の国力の源泉を教育と市民意識の高さと受け止めて、その普及に尽力しています。

列強との対決という将来を見越した危機感の前では、明治6年(1873年)に西郷隆盛が提唱した征韓論など不急の事柄であったため、孝允は西郷を下野させ、後に征台論を唱えた大久保利通とも対立して辞職しました。

そして明治10年(1877年)、西南戦争の最中に孝允は45歳の生涯を終えました。

薩摩藩家老という家柄と実力を兼ね備えた薩摩の名宰相「小松帯刀」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1835年~1870年
●死因:病死(享年36歳)
●別名:清廉(諱(いみな))、尚五郎(通称)

「天下の才人と言えば、薩摩では小松帯刀、西郷隆盛」とうたわれた小松帯刀は、天保6年(1835年)10月14日、薩摩国山下町の喜入屋敷にて喜入領主である肝付兼善の三男として生まれました。

安政3年(1856年)、吉利領主の小松清猷の養子となって家督を継承し、同年7月に島津斉彬亡き後、島津忠義が藩主の座に就くと、当番頭兼奏者番に任命され、集成管館の管理や貨幣鋳造を職務としました。

文久元年(1861年)には長崎出張を命じられ、その際に通詞を雇ってオランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学・研究しました。

さらには忠義の臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演を行った功により島津久光の側役に抜擢されています。

そして同年10月の大幅な人事異動で久光体制が確立すると、帯刀は改革御内用掛に任命されて藩政改革に取り組みました。

翌、文久2年(1862年)には久光の上洛の随行から帰国した後、家老職に就任し、大久保利通や西郷隆盛を要職に就かせたことでも知られています。

帯刀はその大久保利通ら若い下級藩士の集まりである精忠組のメンバーとも親しく交流し、その組織作りにも大きく関わっています。

また西郷隆盛に関しても、島津久光と折り合いが悪く、流罪を命じられるなど不遇を囲っていた時期には、帯刀は幾度となく支援しています。

その後の薩英戦争では研究した水雷を鹿児島湾に配置して活躍したり、戦後においても集成館を再興して蒸気船機械鉄工所の設置に尽力しました。

その一方で、京都において主に朝廷や幕府、さらには諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議にも出席し公武の周旋、倒幕諸藩の糾合に奔走しています。

そして禁門の変では、当初は幕府の出兵要請に対して消極的でしたが、勅命が下ると藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献、その後の第一次長州征伐では長州藩の謝罪降伏に尽力しました。

また、慶応3年(1867年)の大政奉還では諮問役となり、明治政府においては参与職、外国事務局判事などを歴任しましたが、療養中の大坂で36歳の若さで病没しました。

帯刀は、維新前後を通じて人事面にその能力を発揮し、大隈重信のように薩摩閥以外の人材を見い出しては顕職に就けるなど、公正無私な人物と知られており、イギリス人外交官・アーネストサトウから「日本人の中で一番魅力ある人物」と評されるほどでした。

あと、帯刀は坂本龍馬とも親しく、亀山社中に対して資金援助したり、慶応2年(1866年)、逃亡中の身であった坂本龍馬に、薩摩にあった自身の別荘を提供したりと様々に支援しています。

この別荘を起点に、龍馬夫妻は現在でいうネムーンで鹿児島を旅行し塩浸温泉で湯治を楽しんだといわれています。

ただ、帯刀自身もそれより10年前に夫婦で霧島温泉を訪れるなど、龍馬よりひと足早くハネムーンを満喫したそうです。

私利私欲を捨て、日本の近代化のために尽くした「大久保利通」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1830年~1878年
●死因:暗殺(享年49歳)
●別名:利済(諱(いみな))、一蔵(通称)
大久保利通は文政3年(1830年)、藩の記録所書役助に就く父・大久保次右衛門の子として薩摩藩の下鍛冶町に生を受けました。

しかし嘉永2年(1851年) 、次右衛門はお由良騒動に関与して鬼界が島に流され、さらには利通も免職され、以後大久保家の生活は貧窮苛烈を極めました。

嘉永4年(1851年)、幕府の介入により、島津斉彬が薩摩藩28代藩主となったため、利通も復職出来ましたが、その斉彬も在位7年で急死し、島津久光と保守派が再び実権を握ることになると、これに対抗するため急進派の若者たちと共に精中組という徒党を組みました。

一方で利通は権力機構を利用することを目論み、久光の遊び相手である吉祥院より囲碁を習い、吉祥院を通じて献策を行うことにより、久光にに精中組を認めさせることに成功し、尊攘派のリーダー、さらには久光の片腕として手腕を振るうことになりました。

文久2年(1862年)の寺田屋事件において殺されたり処刑されたものの大部分が精中組で、その時利通はすでに強い発言力を有していたが、現実を見据えてこらえました。

また第二次長州征伐の際、幕府老中・板倉勝静は薩摩を幕名により説得して自軍に引き込み劣勢を挽回しようとしたが、大義名分がないという理由からそれを拒み、さらに慶応3年(1867年)の王政復古のクーデターでは、公家の岩倉具視と共に筋書きを描きました。

その後、明治になると利通は文官として遷都、版籍奉還、廃藩置県などの重要案件を手掛け、やがて内務卿として全権を掌握するにいたります。

西郷隆盛などは、「家を築造したり、ぶち壊したりするのは自分の方が上だが、内部整備に関しては大久保の方がはるかに上で、自分は厠の隅を修理するにも足りない」といっています。

明治10年(1877年)の西南戦争では、無二の親友である隆盛を敵に回すことになり、隆盛は薩摩の城山において切腹することになったが、利通は鋼の意思で日本の近代化のためにかじ取りを行いました。

そして明治11年(1878年)5月14日、赤坂に出かけた利通は、赤坂見附から清水谷に至る道の途中に潜んでいた石川県士族の島田一郎、長連豪ら暗殺者達に襲撃され、49年の生涯を閉じましたが、その際利通は朋友・隆盛の手紙を持っていたといわれています。

利通は政府高官にあり、多くの政治家は実業界と癒着して巨利を手にしていたため、巷では彼がどれほど莫大な財を蓄えているかが話題になりました。

しかし親族が利通の遺産を調べてみると、現金140円(約500万円)しかなく、それどころか、家も土地も抵当に入り、逆に借金が8000円(約2億5000万円)という意外な結果でした。

というのも、新国家の建設のため政府は次々と事業を進めたものの財源が足りず、利通は個人的に借金をし、それを政府につぎ込んでいました。

裏工作を得意としていた利通でしたが、実際は清廉潔白な国士でした。

*******************************
お金を借りるならカードローンがおすすめ。
最後まで自力で返済することができれば、いい社会勉強になります。
僕の場合完済してからは無駄遣いしないように支出を抑えるようになりました。
返済期間が長期的になるデメリット

情熱と冷静さを兼ね備えた薩摩藩のリーダー「西郷隆盛」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1827年~1877年
●死因:西南戦争で自刃(享年51歳)
●別名:隆永(諱(いみな))、吉之助(通称)

西郷隆盛は、文政10年(1827年)12月7日、鹿児島市街を流れる甲突川に沿った下鍛冶町で、父の御小姓与・西郷吉兵衛隆盛、母の椎原満佐の子として生まれました。

隆盛は体格が大きく、黒曜石のように澄んだ瞳を持っており、昔から正義感が強く争いを好まない温和な性格で、口数も少ない性格でした。

弘化2年(1845年)、隆盛は18歳で郡方書役助(収税書記官見習い)になり、以後10年以上もこの仕事に携わりました。

その間、農政に関する上申を何度も行い、藩主・島津斉彬に認められ、安政元年(1854年)御庭方(藩主私用秘書官)に任命されました。

改名的な藩主であった斉彬の薫陶を受け、さらに水戸の藤田東湖、戸田蓬軒、橋本佐内など、一流の人物に接して、人格を磨き上げ、主君以上に恩師であった斉彬が亡くなったのち、その志を継いでいきました。

斉彬の死後、隆盛は安政の大獄から尊攘派の僧侶・月照を匿ったが、新しく藩主となった島津久光はこれを許さず、錦江湾においてふたりして入水自殺を図りました。

しかし隆盛のみ奇跡的に息を吹き返したものの、その後二度の島流しとなりましたが、元治元年(1864年)急進派に説得された久光によって呼び戻され、そこから隆盛の中央政界での活躍が始まりました。

盟友・大久保利通とともに禁門の変・第一次長州征伐に参加した隆盛は幕府の衰え悟り、その後は薩長同盟・鳥羽伏見の戦い・王政復古の大号令・江戸城無血開城・戊辰戦争など、幕末に起こった多くの事件に主役として関わりました。

戊辰戦争後、隆盛は新政府入りを辞退し、鹿児島に戻っていたが、大久保や木戸孝允からその優れた政治手腕を頼られ、再び中央政界に呼び戻され、隆盛の尽力で廃藩置県はなされました。

国内の政情も安定してきた中、大久保や岩倉具視らは外遊に出発、その間に政府を任されていた隆盛は征韓論を提唱していたが、外遊から戻った大久保らに猛反対され、この政争に敗北した隆盛は再び野に下りました。

隆盛は大隅半島の小根占で隠棲生活を送っていましたが、そんな隆盛に明治10年(1877年)2月1日、実弟の西郷小兵衛と元近衛陸軍大尉・辺見十郎太が前後して訪れました。

その内容は、大警視の川路利良が隆盛の命を狙い、墓参りという名目で帰省した二等小警視・中原尚雄らに暗殺命令を出している。

さらに、さる1月政府が鹿児島草牟田の陸軍火薬庫から密かに弾薬を運び出したことを知った私学校の生徒が激怒して軍施設を襲撃したというものでした。

2月5日に私学校の大講堂で挙兵が議決され、その際に隆盛は「この身体は、お前さあたちにさしあげもんそ」と静かに言いました。

明治10年(1877年)3月4日、進軍した私学校軍は2万3千の兵で熊本城を囲みましたが、冷静な戦略を持たなかったこともあり、次第に劣勢に立たされ、5ヶ月に渡って九州各地を転戦した後、城山にたどり着いた時には将兵は400以下でした。

同年9月24日、隆盛は政府軍5万を前にして一兵卒として突撃するものの腿を銃弾に貫かれ、倒れた彼は別府晋介に介錯を命じて、切腹して果てました。

しかし、明治22年(1889年)には明治天皇より維新の功労者として正三位を与えられています。