幕府の立て直しに剛腕をふるったリアリスト「井伊直弼」

●出身地:近江国彦根藩(滋賀県)
●生没年:1815年~1860年
●死因:暗殺(享年46歳)
●別名:鉄三郎(通称)

有力な譜代大名として徳川政権の一翼を担っていた名門井伊家11代藩主・井伊直中の14男として彦根城中で生まれた直弼は、隠居した父の寵愛を一身に受けて成長しました。

彦根藩では本来、世子以外の子供は養子に出されるのが普通でしたが、直弼は養子となる機会に恵まれず、父が亡くなった後は城下の屋敷に移って、自身の屋敷を「埋木舎(うもれきのや)」と名づけて、屋敷に埋もれたまま一生過ごすつもりでした。

そしてひたすら居合術、禅、茶道に励み、それぞれ奥義を極めるまでになる一方で学問、特に国学を、後に腹心の部下となる長野主膳から熱心に学びました。

そんな直弼に転機が訪れたのは弘化3年(1846年)、藩主の後継者・直元が急死し、元藩主の直亮が高齢、また他の兄弟たちは養子に出ていたこともあり、唯一彦根に残って直弼が32歳で家督を継ぐため、直亮の養子になりました。

江戸城に出仕し有力大名が集まる溜間詰(たまりまづめ)に勤務するようになった後の嘉永3年(1850年)、直亮が病死し、彦根藩主となった直弼は、譜代大名から成る派閥内で中心人物になりつつありました。

嘉永6年(1853年)、浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、日本が混乱する中、老中の阿部正弘は大名や幕臣まで広く意見を集め、そのほとんどが鎖国の堅持と攘夷論でしたが、直弼は積極的に開国論を唱えました。

将軍・家慶が亡くなり、家定が将軍となったものの、家定には心身に障害があったため、将軍継嗣の問題が起こり、松平春嶽や島津斉彬ら雄藩大名の「一橋派」は一橋家を継いだ慶喜を推し、直弼ら譜代大名の「南紀派」は家定の従兄弟である紀州藩・慶福を推すことによって両派は激しく対立しました。

安政5年(1858年)4月、南紀派の綿密な工作により大老に就任した直弼は、勅命に背いて日米通商条約に調印し、さらに幕閣を刷新・徳川斉昭ら一橋派を処分したうえ、7月6日に将軍・家定が病死すると、慶福を14代将軍に就けました。

これら一連の出来事を知って激怒した朝廷は、安政5年(1858年)8月、水戸藩に対して幕府の条約無断調印と徳川斉昭らの処分を咎める密勅を下しました。

幕府に了解を得ず、朝廷が諸藩に直接勅命を下すということは、幕府権力の否定であり、幕政のトップに立っていた直弼にとっては許せない事であったため、懐刀の長野主膳を使って、自身に反対する勢力の一斉弾圧いわゆる安政の大獄を開始しました。

安政の大獄では京都にいた志士だけでなく、公家や地方志士、幕臣など処分者は100名に上り、特に水戸藩に対しても厳しい罰が与えられ、前藩主・斉昭は長蟄居、藩主・慶篤は差控、家老ら藩士にも切腹や死罪、さらに水戸藩に下された密勅を幕府に返還しなければ藩を滅亡させるとまで迫りました。

勅諚の返還を巡って水戸藩はふたつに分かれ、返還を拒み水戸から脱出した過激派によって、安政7年(1860年)3月3日、直弼は江戸城桜田門の近くで襲撃され、46歳の生涯を終えています。