日本の危機に直面し対応に苦慮した若き老中「阿部正弘」

●出身地:江戸(東京都)
●生没年:1819年~1857年
●死因:病死(享年39歳)
●別名:正一、剛蔵(通称)

福山藩主・阿部正精(まさきよ)の六男として生まれた阿部正弘は、兄の正寧が隠居した後、天保7年(1836年)に福山藩主となりました。

寺社奉行として名を馳せ、天保14年(1843年)には25歳の若さで幕府の老中に就任し、弘化元年(1844年)には海防掛、翌年には水野忠邦の後任として老中主席の地位を得ています。

正弘は、将軍に開国を進言した先代老中・水野忠邦と反目するなど、多くの論者たちと同様に当初は攘夷派だったといわれています。

嘉永6年(1853年)にペリー艦隊が浦賀に来航すると、幕府の前例を破って諸大名や幕臣に広く意見を求め、翌年にはペリーと日米和親条約を結んで、日本の鎖国を解きました。

それは幕政に関わっている間に、岩瀬忠震や勝海舟などの有能な人材の発掘を行った正弘は、岩瀬の影響を受けて開国論と富国強兵論の支持に変わったからでした。

正弘は松平春嶽や島津斉彬、徳川斉昭ら有力大名と協力して政治を行いましたが、それは過去の幕府において譜代大名と旗本が政治を司どり、いくら有力でも外様大名が口をはさむことが出来なかったという前例を覆したものでした。

中でも正弘は、春嶽の仲介で出会った斉彬と親しく、崩壊の危機に瀕した幕府の屋台骨をさあ冴える補佐役として重く用いる一方、斉彬の薩摩藩主就任にも尽力しています。

その親しさは島津一門の篤姫(後の天璋院)を徳川家定に嫁がせたほどで、さらには尊王攘夷で知られる徳川斉昭を幕政に加えたことも異例のことで、このように水戸・薩摩などの雄藩を幕府の号令のもとに連合し、「挙国一致体制」で諸外国に対抗しようとしていました。

また講武所や洋学所、長崎海軍伝習所の設置なども正弘の功績で、こういった先進的な学問所から、勝海舟など維新に関わる人材が出てきたことを考えれば、正弘が維新に以下に影響を与えたかが理解できます。

そのように、あまりに革新的すぎる正弘の政策は、井伊直弼など譜代大名たちの激しい反発を招き、追いつめられた正弘は、老中主席の地位を溜間詰(たまりまづめ)大名のひとりである堀田正睦に譲ることになりました。

以後、正弘は内政に専念し、幕政全般の改革を狙ったが、安政4年(1857年)6月、志半ばで病死しています。

正弘こそ、幕末動乱期におけるすべての種をまいた男ということが出来、もっと長生きをしていれば、幕末の状況も変わったかもしれないと惜しまれています。

そんな正弘ですが、人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かったため、ある人がそれを不審に思って尋ねてみました。

すると正弘は「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と、笑いながら答えたという逸話も残されています。