1853年4月7日、アメリカ合衆国 東インド艦隊司令長官であるマシュー・カルブレイス・ペリーは日本を目指して気走軍艦ミシシッピーを香港へ投錨させました。
ペリーの目的は、国を閉ざしたまま300年近くになる、非キリスト教国唯一の文明国であり、かつ最古の歴史を誇る日本に対して、世界の中でも最も若い国であるアメリカの代表として、開国を迫ることが目的でした。
当時、アメリカは大西洋と太平洋を繋ぐ、世界航路の中心地でありたいと考えていましたが、蒸気船はあるものの、それを動かすための石炭や薪水の補給をする必要がありました。
さらに、大西洋から太平洋に漁場を広げるアメリカの捕鯨船にとって、安全な避難場所を確保する必要があったのです。
この頃はアメリカの捕鯨業の黄金時代であり、日本近海に出没するアメリカの捕鯨船の数は、店舗14年(1843年)には100隻を超えていましたが、三年後の弘化3年(1846年)には3倍の290隻を数えるまでに増えていました。
こうした情勢の元で日本への遠征をすることになったペリーは、出発から一か月後、ケネディ海軍卿へ以下のような手紙を送っていました。
その内容は「捕鯨船などのための避難港と給水港を確保する必要があるが、日本政府がこれを拒否し、軍隊及び流血がなくてはこれを獲得することが出来ない時は、南部の一、二の島内の港を手に入れ、水と食料を得るための集合地を確立する」といった、明白に武力行使によって日本攻撃と、さらには琉球列島の占領・開国を意図したものでした。
その手紙を受けた、翌1853年2月15日付けのワシントンからの返書でも、慎重な対応を望みながらも、「琉球諸島内で、この目的を達する点については意見が一致した」と記しています。
事実ペリーは、浦賀沖に到着する以前に、沖縄の那覇へ寄港し、得意の威嚇外交によって薪炭・食料の供与及び貯炭場の設置を認めさせました。
そのように琉球・小笠原諸島をアメリカの基地として使用できる見込みがついたペリーは、江戸においても、国書がしかるべき高官によって受理されなければ、十分な武力を持って奉呈する意思を持って江戸へ向かいました。
そして嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー艦隊は日本の伊豆沖に姿を現し、幕末の日本を大きく揺さぶりました。
幕府はオランダからの再三の風説書にも拘わらず、十分な準備をしてこなかった幕府は、ペリー艦隊を目にして大いに慌て、弘化3年(1846年)に江戸湾防備のために、各台場合わせて28門、警備船の水夫を含めた警備兵5900余人を配備しました。
ただ、佐久間像山はこの様子を見て、「諸砲台を見るに、一ヶ所として実用に適するものはなく、江戸湾口を通過せんとする船を撃沈するが如きは不可能である」と評しています。
それでも各台場では木星の疑砲を立てかけ、台場陣屋には幔幕を張り巡らして旗や幟を林立させて、さらに鉄砲や槍を整えてペリーの襲撃に備えました。
その一方で、幕府は日光東照宮へ高家・宮原弾正大弼を使者に立て、白銀を100枚贈って祈願させました。
にしても、疑砲の設置された各台場の光景を見たペリーはどう思ったでしょうか。
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