薩摩藩家老という家柄と実力を兼ね備えた薩摩の名宰相「小松帯刀」

●出身地:薩摩国薩摩藩
●生没年:1835年~1870年
●死因:病死(享年36歳)
●別名:清廉(諱(いみな))、尚五郎(通称)

「天下の才人と言えば、薩摩では小松帯刀、西郷隆盛」とうたわれた小松帯刀は、天保6年(1835年)10月14日、薩摩国山下町の喜入屋敷にて喜入領主である肝付兼善の三男として生まれました。

安政3年(1856年)、吉利領主の小松清猷の養子となって家督を継承し、同年7月に島津斉彬亡き後、島津忠義が藩主の座に就くと、当番頭兼奏者番に任命され、集成管館の管理や貨幣鋳造を職務としました。

文久元年(1861年)には長崎出張を命じられ、その際に通詞を雇ってオランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学・研究しました。

さらには忠義の臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演を行った功により島津久光の側役に抜擢されています。

そして同年10月の大幅な人事異動で久光体制が確立すると、帯刀は改革御内用掛に任命されて藩政改革に取り組みました。

翌、文久2年(1862年)には久光の上洛の随行から帰国した後、家老職に就任し、大久保利通や西郷隆盛を要職に就かせたことでも知られています。

帯刀はその大久保利通ら若い下級藩士の集まりである精忠組のメンバーとも親しく交流し、その組織作りにも大きく関わっています。

また西郷隆盛に関しても、島津久光と折り合いが悪く、流罪を命じられるなど不遇を囲っていた時期には、帯刀は幾度となく支援しています。

その後の薩英戦争では研究した水雷を鹿児島湾に配置して活躍したり、戦後においても集成館を再興して蒸気船機械鉄工所の設置に尽力しました。

その一方で、京都において主に朝廷や幕府、さらには諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議にも出席し公武の周旋、倒幕諸藩の糾合に奔走しています。

そして禁門の変では、当初は幕府の出兵要請に対して消極的でしたが、勅命が下ると藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献、その後の第一次長州征伐では長州藩の謝罪降伏に尽力しました。

また、慶応3年(1867年)の大政奉還では諮問役となり、明治政府においては参与職、外国事務局判事などを歴任しましたが、療養中の大坂で36歳の若さで病没しました。

帯刀は、維新前後を通じて人事面にその能力を発揮し、大隈重信のように薩摩閥以外の人材を見い出しては顕職に就けるなど、公正無私な人物と知られており、イギリス人外交官・アーネストサトウから「日本人の中で一番魅力ある人物」と評されるほどでした。

あと、帯刀は坂本龍馬とも親しく、亀山社中に対して資金援助したり、慶応2年(1866年)、逃亡中の身であった坂本龍馬に、薩摩にあった自身の別荘を提供したりと様々に支援しています。

この別荘を起点に、龍馬夫妻は現在でいうネムーンで鹿児島を旅行し塩浸温泉で湯治を楽しんだといわれています。

ただ、帯刀自身もそれより10年前に夫婦で霧島温泉を訪れるなど、龍馬よりひと足早くハネムーンを満喫したそうです。