土佐藩を尊王攘夷の中心へ、という思いの実現に殉じた「武市半平太」

●出身地:土佐国土佐藩
●生没年:1829年~1865年
●死因:切腹(享年37歳)
●別名:瑞山(号)、小盾(諱(いみな))、柳川左門(変名)

土佐藩の武士には、上士と郷士の2種類あり、そのうちの郷士は徹底的に差別されたが、武市半平太が生まれた家は、この身分差別の唯一の例外である郷士の中でも白札と呼ばれる特別な身分で、最下級の上士として藩政にも参加できました。

半平太は幼少より文武に秀で、特に剣術は一刀流の千堂伝四郎やあ麻田勘七に学んで、免許皆伝を授けられるほどで、安政元年(1854年)には高知城下で道場を開いています。

また半平太は身長6尺(約180cm)の偉丈夫ながら、色白の涼しげな容貌で頭脳明晰、さらには人柄も穏やかで誰からも愛されたといわれています。

安政3年(1856年)、半平太は藩命によって江戸へ遊学し、江戸三大道場のひとつ鏡心明智流で天下に名高い桃井春蔵の道場に入り、翌年には塾頭となって、後進の指導に当たる一方、文の道では国学者・徳永千規や書家・島崎七助について学問や書を習うなど、半平太ほどの文武器量を備えた人物は天下に何人もいませんでした。

半平太には、土佐の勤王派をまとめて反論を動かす力とし、その後自ら藩政を動かして藩全体を勤王化し、他藩とも連携しながら尊王攘夷の活動を時代の本流として、最後には幕府を倒し朝廷を奉じて新しい政府を樹立するという構想がありました。

安政5年(1858年)9月5日、大老に就任した井伊直弼が行った安政の大獄によって全国の多くの勤王志士は処断されてしまったものの、安政7年(1860年)大老の井伊が桜田門外で討ち取られると、江戸へ出て長州・薩摩・水戸の藩士らと4藩共同での尊王攘夷と討幕の計画を練ったうえ、土佐へ戻りました。

帰国後、大石弥次郎や島村衛吉、池内蔵太ら同志を集め、土佐勤王党を結成し、この勤王党は郷士ら軽格の集まりとはいえ、藩も無視できない勢力となっていきました。

さっそく半平太は、土佐藩主の腹心である吉田東洋を訪ね、藩論として尊王攘夷論を献策したが、拒否されてしまい、そのことを聞いた勤王党同志の中でも過激派の那須慎吾らは文久3年(1862年)4月、東洋を暗殺しました。

その直後、半平太は土佐藩を思い通りに動かすため、尊王攘夷主義の重臣・小南五郎右衛門を復職させて、勤王党の上士を要職につけて、藩論を勤王一色に塗り替えることに成功しました。

さらに半平太は、京都藩邸に勤王党員を派遣し、活動させる一方で、山内家に縁のある公卿を動かして朝廷工作を行う、というように一流の政治家として能力を発揮していきました。

しかしこの繁栄もわずか2年足らずで、文久3年(1863年)、藩の暴走を不満に思う藩主・山内容堂が改革に乗り出し、これによって藩首脳部は処断され、勤王党に対しても大弾圧が行われました。

そして禁門の変によって尊王攘夷活動の最右翼である長州勢力が京都から駆逐されたことにより、半平太もついに投獄されました。

藩庁は半平太を取り調べる一方で、獄にある勤王党同志らを激しい拷問にかけるものの、だれも白状しませんでしたが、岡田以蔵の捕縛・自白によって、慶応元年(1865年)5月、37歳の武市半平太は切腹して果てました。